なんというかまあ

 フェミニズムというのに関心を失って久しい。単に関心がなくなったというか、フェミニズムと限らず「現代思想」もそうなんだろうし、他歴史問題という問題もそうなのかもしれないけど、議論のフレームワークがよくわからなくなっている。奇妙な印象を受けるのはそれでもそのフレームワークは「知」的に構成されていて、それなりに外国の議論などが前提になっているっぽいし、それなりに学際的な学術領域においてフレームワークはあるのかもしれないのだけど(翻訳文化という印象はあるけど)、けど、というのは、普通に欧米圏のインテリの日常というか世相の議論を見ていると、出てこない、そして欧米圏のインテリってけっこう洒落もあるけどマジな人が多いという印象はある(とくに同性愛問題)。なのでそうしたレベルを見ていると、まあ、現下の世界認識において、日本のそうした知のフレームワークはそれほど重要でもないのかなという印象はある。
 で、と。与太なんだが、というか、私がロートルなんだけど、日本のフェミニズムというのは、実際にはそれを語る女性の論者というのがいて、それが先生で、その先生を信奉する女性がいて、で、その女性に嫌われたくない男が、フェミ思想を語るという構図、あるいは、その構図を嫌悪するという構図かな。そんな印象がある。
 なのでというのも変だけど、そうしたフェミ思想とは別に、対性に嫌われてもしかたないな、みたいな、ごく当たり前の孤立感を性について持っていると、その構図全体に奇妙な違和感が出てしまう。
 ただ、若いときには、そうした思想とは別に、直接的な性の牽引みたいな力学というのはあって(つまり思想なんかどうでもよくて恋愛とか性欲とか)、話がごちゃっとするかな。
 もうちょっというとフェミニズムというのは老女とその連帯の問題かなと思っていたけど、けどというわけでもないが、上野千鶴子がお婆さんみたいになってきて、そのあたりは見えやすくなってきていると思う。お一人様というより性的パートナーが社会組織化されていない老女の連帯の問題かな、と。(反面に地域と子どもたちの問題があるけど。)
 で、男は? という問題はあるし、つまり老男。これから非婚の男はたぶんそうなっていくわけで、じゃ、老男が連帯する? というとき、実際には連帯というより社会サービスへの依存というか貨幣化サービスへのドライブになってしまうんじゃないか。ああ、つまり、シャドーワークの別の形への希求というか。
 あと、はてなとかから見えるけど、思春期から長い青年期での、性的弱者男子の問題は大きいかな。これはどういうフレームワークで論じていいかまるでわからない。なんとなくだけど、ルサンチマン的に変性され社会的なイデオロギーに注入されていくような印象はあるけど、これって、結局、かなりは個人の性の問題なんで、うまくいかないと思うが。