今日の一冊 「翔太と猫のインサイトの夏休み」永井均

 ⇒川上未映子さんの私の1冊「翔太と猫のインサイトの夏休み」永井均 | NHK 私の1冊 日本の100冊

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翔太と猫のインサイトの夏休み―哲学的諸問題へのいざない (ちくま学芸文庫): 永井 均: Amazon.co.jp
 簡単にいうと、永井均版「ソフィーの世界」なのではないかな。で、私は、こういう子ども向けに哲学を分かりやすく書くという本はもう読めないんで、まいったな、と。私は、子どもには哲学を薄めるんじゃなくて、本物の哲学の本質をどーんとぶつけていいように思いますね。つまり、学問としての哲学というのは、ある意味、アート(手技)になっていて基本的な西洋哲学史とかの素養が必要とされる。しかし、そうしたものは中島義道がさっさと言ってのけたけどそれほど本質的なものではないわけで、というか、デカルト方法序説もそうしたところから始まっているし、プラトンの著作なども、体当たりできるように書いてある。だから、体当たりすればいいかな、と。ただ、これももうちょっというと、こういうものに体当たりして本当に考えると、近代人ではなくなる。そのあとは近代人を偽装して生きていくことにはなる、とは思う。
 で、一部朗読や川上の話を聞くのだけど。
 朗読のなかで、現実世界と可能世界というのが出てきて、現実世界は可能世界の一つのいうくだりがあって、あ、痛いたたたとか思ってまいった。可能世界というのは、たぶん、この本では独自の定義をしているだろうけど、きちんとした定義があるんで、まいったな、と。それと現実世界というのは、基本的にはフッサール的な生世界として取り出せるもので、こういうと先の体当たりとは矛盾するけど、それなりにきちんと哲学の基本で考えたほうがいい。まあ、でも、まいった。
 ⇒可能世界論 - Wikipedia
 ⇒Lifeworld - Wikipedia, the free encyclopedia
 あと、死とハイデガーの話が出てくるのだけど、ここもまいった。死については、本当に体当たりするとどうしても一種の不可解な問題に直面する。近代はそこを公社会のために隠蔽する仕組みというか、個人幻想への抑制として機能するけど、死の問題は、むしろ生物的な本能というかそういう部分の生得的なフレームワークがありそうだ。まあ、このあたりはよほど注意して議論しないと誤解されるけど。
 ハイデガーについて、「存在は存在しない」は、れいのCopulaとして現れる印欧語特有の疑似問題なんです。余談だけど、西洋人の頭のなかにおけるCopulaというのは、文法論的には等号みたいに見えるしそういうふうに、解説もあるんだけど、「繋辞」ってやつね、でもそれは文法論とかでまとめた学の表出であって、日常でCopluraを使っているときの、彼ら特有の存在感覚というのがあるんですよ。このあたりこそ、ハイデガー読んでいて私も分かったけど、彼らのいう存在とは、日本人のいう「感」に近い。孤独「感」、幸福「感」、つまり、これは、彼ら的には、孤独として「有る」ということ、幸せとして「有る」ということ。で、この「有る」=「感」を支えている本体はなんだろうという問いなんで、日本人的な思考では、そうした感は、人「間」じゃないけど、間主観的な了解が先行してしまう。雑駁にいえば、欧米の存在論は疑似問題だし、ハイデガーデリダ差延というのも、存在論がCopulaであるという疑似問題のパラドックスに過ぎない。
 で、最近わかったけど、デカルトはむしろ、これに体当たりしている。というか、体当たりのような取り組みをしたということがデカルトの蛮勇だし、一種の行動哲学でもあった。というか、方法序説というのは、まだにデカルトの系譜でモデュレートされた世界の子孫としてではなく、デカルト的な歴史世界のなかで体当たりすると、実は、かなりトンデモないことが書いてある。簡単にメモ的にいえば、デカルトは夢の世界と身体を持たない自分の存在について考えて、そして夢の身体から、身体なくしても成立する魂としての自分をこの世界の原理としたとういこと、もうちょっとぶっちゃけていうと、ドリームタイムを否定したことなんですよ。ま、しかし、どうでもいいか、こんな話。
 川上未映子については、短い文章くらいしか読んでいない。ブログがあるらしいが、知らない。個人的にこのタイプの人には抵抗感があって、自分はだめだぁという感じくらいだし、これはべたな偏見なので、なんとも言い難い。ただ、今回の映像で、対話中、川上が人差し指を立てた右手を机に置いてこねこねいじっていたのが印象的だった。この仕草は、私には強烈すぎる。