ちょっこっと些細なつっこみ

 ごく些細なつっこみ以上ではないよ。
 ⇒404 Blog Not Found:日本語は誰のものか?

中華人民共和国中華民国(台湾のことね。念のため補足)がなくなっても、華僑たちが中国語を語り継ぐだろう。ディアスポラしたユダヤ人たちは、ヘブライ語を復活させてしまった。

 「中国語」というのは「普通語」のことかな。なわけねーですね。
 最近は上海語を保存しようとする動きもある。
 「ヘブライ語を復活」は、1、復活なのか再創造なのか擬制人工言語なのか、2,「ディアスポラしたユダヤ人」なのか。ま、ね。

非国民と言われるのを承知で言うと、私にとってより大事な日本は、「国」ではなく「語」の方なのだ。

 「非国民」というより、人をどう見るかという位相の問題かな。国がなくなれば国籍がなくなる。その悲劇は、つらいよ。

二つ。「訳さざる文」というのは、確かに存在するのだということ。

 聖書がぜんぶそれで書いてあるかもしれないと、私はある時気が付いた。でも、クルアーンのように朗詠すればよいものでもないしなあ。

私の言う「文学」は、むしろ英語のliteratureに近いという言い方もできるかも知れない。

 このliteratureの語感は難しいね。humanityもだけど。

にも関わらず、コンピューター言語は一つになるどころか、いくつも生み出されて、今後もさらに生み出されるだろう。なぜか。それが「コンピューターが実行すべき命令」ではなく、「人間が読むべきもの」となった途端、「文学的」になってしまうからだ。
 
これを最初に「発見」、厳密には「言語化」したのは、Larry Wallだと思われる。

 ここが微妙に微妙なところ。チョムスキーとかがいうUGは意味論を含まないというか、論理的なexpressionとは区別される云々。というのはさておき、Larry Wallがね。
 Larry Wall言語学を学んだ。このあたり、4年くらい前に弾さんとレス交換みたいのをしたことがあるように思うけど、弾さんは知っていると思うけど、Larry Wallは、 Kenneth Lee Pikeのお弟子スジになる。Tagmemicsなんですよ。そのあたりの背景を知らないと、弾さんがここで何を言おうとしているかは掴みづらいのでは。というのと、Pikeがどのような位置づけにあったかについてはたぶん弾さんは知らないと思うので、このあたりはお馴染みの弾言になっている。
 パイクの考えは⇒「文化の文法―40の行動原理: ケネス・リー パイク, Kenneth Lee Pike, 片田 房: Amazon.co.jp: 本」
 そしてPerlはある意味ではそういうものだった。過去形でそう思うけど。

エスペラント語で考えている人は、いるのだろうか。もしそうでないとしたら、エスペラントは生まれてすらいないことになる。エスペラントは簡単だという。しかし、私は未だにエスペラント語で夢を見るという人にお目にかかったことがないのだ。

 エスペラントネイティブは存在するから、夢も見ると思うけど。
 そして、なぜエスペラントネイティブが存在するのかはもう忘れ去られていくけど。

日本語を日本国に閉じ込めておくのは、日本国民ならざる日本語人に対する不当な差別なのではないか。そして、日本語の可能性に対する不当な過小評価ではないのだろうか。

 というか、日本語がナショナルに機能するように、近代的に出来ていたわけで、先に書いた、漱石の人生の質感というのも、基本的に近代人たらんとさせる、フーコー的な権力かもしれない。まあ、このあたりはいわゆる近代批判というより、この近代言語が、学校とともに出現し、この学校が、皆兵化に繋がっていたことが大きな問題なんだけど。
 ただ、漱石自身は、最後は、良寛の書みたいなものに向かっていった。そのあたりに、日本語のなかで半世紀くらい生きた、至福というか倒錯というのはあるにはある。