曇り

 だいぶ冷える。
 昨晩はよく寝付かれなかった。それで困るというものでもなかった。坐禅もせずなにもせずしばらく時を過ごした。
 夢も覚えていない。
 田母神俊雄航空幕僚長にはそれほど関心はないが、定年という話を聞き、60歳というと老人の部類だろうが、私はああ、この人も戦争を知らない戦後の人なのだと思った。スチルの写真を見た。立派な雰囲気を漂わせているのだが、奇妙な甘さと浅薄さが漂っている。世間に汚れたことのない雰囲気もある。そしてこういうのはなんだが薄く女に甘い感じも漂っている。ようするに凡庸な成功者にありがちな空白感がある。そしてそれは戦後の人の特有なものではないか。あるいはこの時代の戦争を知らない世代特有の。
 そう思って往時の栗栖弘臣の顔を思い出す。栗栖もどちらいえば美男子の部類ではあるし、凜とした雰囲気があるが、それ以前にこの人は仕事の人だという雰囲気があった。仕事で人に接するための笑顔があり、そういう特有の仕事への厳しさというか厳格とも違うのだが、律儀なものがあった。仕事を離れれば、そこいらで普通にベンチに座っていそうな普通の人でもあった。彼は信念というよりただ、職務ということを考えていただろうし、その限定のなかでの愛国心ではあっただろう。ただ、この愛国心すら今の時代では通じないだろうが。
 ”[あの人は]元統合幕僚会議議長の栗栖弘臣さん 安保担った一匹狼”(読売1994.01.21)より。

 自衛官時代の栗栖さんは「直言居士」と評された。「タカ派の一匹狼(おおかみ)」とも。昭和四十年代、革新勢力などの反対で自衛隊の市中行進が各地で廃止された時、広島の第十三師団長だった栗栖さんは、「我々を養って下さっている国民の皆様に見ていただくのがスジ」と、自ら先頭に立って市中をパレードした。

 単に「我々を養って下さっている国民の皆様」という思いでしかなかっただろうと思う。

 制服組の高級幹部(将校)のほとんどが旧陸士、海兵卒の職業軍人出身だった当時、栗栖さんだけは一般大学(昭和十八年九月東大法学部)卒。内務省入りしたものの、即日、海軍短期現役士官を志願し、インドネシア終戦を迎えた。
 戦犯に問われた戦友たちの特別弁護人として現地に残留したため復員が遅れ、内務省復帰を断念して警察予備隊へ、という異色の経歴。その点では「一匹狼」だったのかも知れない。

 戦友を離れるわけにもいかなかったというのは彼にはただの運命だっただろうし、警察予備隊に入るのも望んだというよりは東大法学部卒なのだから官吏として国に仕えるというくらいのものであっただろう。本当の軍人でもあり本当の官吏でもあり、ただ職務をこなしていたという、そういう意味では普通の人だったのではないか。
 その後大学の先生になった。

 若い学生たちに「栗栖事件って、どんなことだったんですか」と質問を受けることがある。「その時の政府と考えが違っていた、ということでしょう」と、やんわり受け流すそうだ。
 「学生さんには、私自身の意見は極力述べないことにしています。安全保障についての歴史的、普遍的な知識を身につけてもらう。土台つくりのお役に立つことだけを考えている。そこから新しい芽が生まれるのを期待しながら……」という。その表情は、まぎれもなく教育者のものだった。(原田 アキラ)

 ここでもただ仕事をしているだけの人だった。教育者というより、人は国を思い国民を思い仕事をするというだけだったのだろう。
 信念はあっただろうが、いわゆる歴史観でも、いわゆる国防観というものでもなく、ただ職務というだけだったのではないか。それがもたらす運命は甘んじて受けて、それが人生を形作るということにも特に違和感もなかったのだろう。