晴れ

 冬の空気ではない、晩秋の朝だなという感じだが、まだ紅葉は早そうだ。
 夢は。詳しくは覚えていないが、なにかの騒動でそこにいた赤ちゃんを背負っていくというもの。赤ちゃんくらいどうってことはないだろうと背負うのだが、これが重たい。人間の重みかとか思っている自分がいる。
 このところ、エキササイズ量が減っていかんな、やや風邪気味というのもあったりするなと思いつつ、奇妙に感性が若くなっている部分がありそうだ。老化の過程というのは単純に減衰していくのではなく、ある部分は補償的に鋭くなるのだろうか。
 私は悔いの多い人生だし、青春もまあそれなりに悲惨だったが、さすがに若い頃の経験は他人事のような乖離感はある。が、逆にその乖離感ゆえにその感覚が純化されているような感じはする。
 では現実的に、ゲーテとまではいかないが、あるいは西洋男性の初老にありがちな恋心みたいな心があるかというと、そこは微妙というか。現実問題として50歳というのは、はてななどで爺呼ばされるされているほどには爺ではない(もっとも20代、30代の自分が50代の人間をどう見ていたかという記憶はあるが)。これは60では決定的にもう爺化するのだろう。というか、これから日々そうした老化に向き合うのだが、がというのは、この心のありかたというのは、存外に難しいぞと思う。いやそういう陳腐な表現とも違う。40代になったころは、ユングや河合が中年の危機というのをいろいろ言っていたことを思い出し、ゆえにその時代には思うこともあったが、50代になるとそれとはなにかが違う。ある意味で40代の危機を招くような悪因は制御しやすくなる。
 吉行淳之介の最後の作品と言っていいだろう「夕暮まで」で主人公の佐々が、昨年だったか読み返して、まだ40代くらいだということが不思議に思えた。明らかに60代を終えた吉行の心が入っているのだが、佐々の心の動きや性的な体の動きは40代に近い。作品上、20代の女とからませるのでそうしているのだという部分はあるだろうが。
 ある意味で性の問題でもあり、それでいうなら日本の文学では谷崎や川端という怪物がいるのだが、また、伊藤整などもそうなのだろうが、どうも実際に自分が老いのとば口に立つと、何かが違う。
 以前も書いたのだが、人の心というのはどうも老いない。40歳あたりからなんか変だと思うようになった。私は基本的に心性としては25歳を超えていないどころか、ある感性のクラスターは14歳くらいで止まったままだ。ある種の呪詛のようなものでそこで止まっている部分はあるし、実際のところ身体感覚に無意識にすり込まれた老いの狡猾さみたいなものはあり、そのあたりは自動運転しているなら、なるほど中年のオッサンですなみたいな様相を出すことはできる。このあたりはたぶん語っても逆に理解されるだろうか。つまり、オッサンが本体なのに若いふりだと思い込みたいとか。まあ、そうかもしれないが、内観としてはそうではない。
 ただ、現実問題として向かう対性、つまり女という問題になると、30歳くらいまでの女は「子」として見える部分が大きい。はてななどネットではべたに若い子が多いのか、巨乳がみたいなネタがあるが、自分はあれは、人類が生物的に存続するしかけだなというふうに見えつつある。たぶん、老いというのはそうして人類として存在したことの巨視的な意味了解の過程でもあるのだろう。
 なぜそのような過程があるのかと考えると、内田先生のようなオカルトになってしまうし、実際のところそうしたオカルト的思考というものは避けがたいのではないか。先生のようにするっと合気道の構えでそれが受け入れらるというのは自然な生き方なのかもしれない。