夢の中で泣く惨めな感じっていうか

 このところ朝の時間の構成を変えているせいか、あまり夢を思い出さなくなり、今朝もそんな感じだったのだが、ふと車窓を見て思い出した。ごく断片的だったが、青春の私が泣いていた。恋愛に関連したことだったように思う。ディテールはよく思い出せないし、記憶とダイレクトに結びついているわけでもなかった。直接的な失恋というのでもなく、ただ、自分の思いが伝わらない孤独と惨めさみたいなものに呆然として、そして号泣しているのだった。
 50歳にもなってこんな感情を胸に秘めていたのかと自分を呆れたし、情けなくなくも思ったが、じっと心を見つめてみればその感情はいつもある。たぶん、根幹は幼児期にあって母に愛されない、そして異性にも愛情という点で信頼されない。友だちもいない。いつも死に至る細くかっちりとしたプラスチックのような崖っぷちの先に立っていて、さてこれで人生終わりか、なんてつまんない人生なんだろ、死ぬのもなぁと思って引き返すそんな心象だけがある。
 死にたいという気はあまりない。年に一回か二回くらい。でも、そのくらいならうまくごまかせるし、それがけっこう普通な人生の私。と言いながら、一昨晩だったか、ぼんやり暗闇でじっと伊丹十三の死のことを思った。まあ、若作りな人だったが60歳過ぎていたからそれはそれで人生っていうものじゃないか。私の父も60過ぎてぽくっと死んだ。自殺しようがしまいが、人生はあとラストスパート10年くらいか。意外に20年くらい老醜をさらしているのだろうか、そっちもありかもしれないが。
 冷静に考えれば老境ということはない。それどころか、この年こいて10代、20代の心情にケリが付けられそうにない。下手すると一生こんなものなのだろう。人生に悟りなんてものはないだろうなと30過ぎくらいに思ったが、まあ、どこまで続くぬかるみぞみたいな感じはある。
 実人生で泣くことはあまりなくなった。厄年ごろ、ああ、ホントに自分の命運尽きたか、人生終わったなと思うことがあり、率直に言ってあまりの悔しさに天に怒号を発して泣いたことがあった。こんなに自分に悲しめるっていうのも人生の妙ってものか、40過ぎて。幸い、どういうことかその後も生きている。なんかずるっと10年近くも。余生儲けものという感じもしないではないが、それでもまったく諦観にも達観にもならない。
 夢で泣いたが、身体的には涙が出たわけでもなかった。どちらかというと泣いている青春の私をじっと遠い自分が見ているという趣だった。なので、正確に言えば泣いているというのではないだろう。この遠い自分という感覚もまた奇妙で、今の自分がそれに近いはずなのだが、感覚としてはさらに遠く、死後の自分が自分の人生を悲しんでいるようなものだった。こういうヘンテコな感覚はどう考えてよいのかわからない。
 悲しみの根にあるのは、母子関係、広義に親子関係ではあるだろうが、それが異性の関係や友情やその他にも及び、人生を歪ませてきた。振り返ってどうすることもできないし、みな済んでしまったことだ。ましな恋愛でもできればよかったと思わないでもないが、この年になってみると、若いある年代のましな恋愛というのはそこで完結するわけもなく、いずれ生きて泥まみれになり、ごく普通に悲劇に終わるものだ。
 泣きたくなるようなことが、普通に、いろいろあって、でもそれはみな済んでしまって、人生を生きるなら老醜であろうが、前に向くしかない。というなら、私の心はその泣きたくなるようなことに今もしがみついているのだろう。しがみつく意味もないだろうに。
 そう思う気持ちの半々みたいなのが、泣いている自分を悲しげに見ている自分という入れ子のような感情でもあるんだろう。