豊かさのなかで失ったもの的な思惟

 「漫画家の赤塚不二夫 : NHKアーカイブス」で古谷三敏が赤塚のギャグのなかにある食い物へのこだわり、特におそ松くんで食い物を争うというあたりを強調していて、そのあたりに赤塚の体験のコアの一つがあっただろうとしていた。
 私は昭和32年生まれで、社会的な貧しさという時代感覚はあるけど、ひもじさという感覚はない。これは多分に個人的な性向もあるかもしれない。思うにまずいものばっかり食わされて、食い物っていうのはこういうものかなとしか思っていなかった。また空腹感というのがない人だったので、高校終わっても買い食いという習慣がなかった。夜食もない。まったく腹が減らないわけではないが、空腹感がきくつない。20代とか忙しいときは気が付くと1日自然に絶食していたことがあった。
 私より上の団塊の世代には、階層にもよるけど、社会的な貧しさに加えて、多少ひもじさの感覚はある。食えるだけで快感という時代がそこにあったようだ。
 こうした貧しさ・ひもじさというのは、人間と自然の風景のなにかと不思議なトーナリティを持っているのだが、おそらくその感性は、大枠としてはもう1960年代後半生まれ以降の人はないだろう。
 そこで、たぶん、「貧困」というものの意味合いが変わってきているのではないか。これは貨幣的な意味合いもある。
 私の父の世代、せいぜい昭和一桁の世代に人にとっては、貨幣的な富裕というのは、基本的な相対性を持っていて、貨幣=富裕ではなかった。また実際の富裕層もそれほど貨幣的な富裕性はなかった。それを補っていたのが社会的な信頼といえばそうなのだが、地域コミュニティというより、とりあえず国家に寄り添って日本株式会社を存続させようというある種のエートスだったかもしれない。これは反面において、だから、貨幣による富裕を生じさせる余地があり、なんというか、成金というベンチャーを結果的に育成していた。知識人はこの中間的な位置だったかと思う。
 いずれにせよ、もうそういう時代はないし、復権もできない。