研究っていうか

 ⇒実質NEET

でも研究対象は今でも好き。それはもはや理屈じゃない。物心付いたときから自分に根付いていたものだから。
だから研究に本当に興味がないわけじゃない。
むしろ誰よりも理想の俺は研究をしたがっている。
でも出来ない。上手くいかない。それは俺に恐怖を呼び起こす。あの欝の、あの闇が怖い。

 わかる部分がないわけではないけど、研究って、論文読むことだし、論文っていうのは、国際的な主要学派の論文のことだし、それって、少なくても10年からの歴史があるわけで、そういう文脈が、研究の意味、を構成しているので、自分の内的な関心というのと研究というのは、そううまく整合しないもの。
 自然科学だと、その点すこし楽で、10年間忘れられた研究とか急に接ぎ木してもリザルトが出るとOK。
 ただ、実際の自然科学というのはスタッフを含めた設備がものをいうので、日本だとそこですでに実質的な研究はかなりフィルター。

自分に深く根差した研究対象への興味、というのは俺の人生そのもので、自分が進むべき目標でもあった。道標だった。
それに対するトラウマ。
それはつまり人生の目標を失い、道に迷ったことを意味する。
 
初めての経験。
目標のない人生という初めての経験。

 そこは率直にいうと微妙。人生なんて目標がないということでFAな人も多いけど、ま、ざっくばらんにいえば、人間存在というのは内的な究極関心をもっているのでそこはむしろ蓋をしないほうがいいのだけど、けどというのは、それは自身が言語化して了解していることではなかったりする。
 変な例だけど、男の少ないとは思うけど、多様な女を知りたいというのが究極関心で結局人生それで棒に振るとういのもある。まさかのようだけど。
 人がどのような究極関心を持っていたのかそしてどうそれと死を折り合い付けるかというのは難問と言えば難問だし、あまり社会の表面とは関わらない部分もある。