詩篇とか

 聖書に詩篇というのがある。
 ⇒詩篇 - Wikipedia

詩篇』(しへん、ヘブライ語:תהלים‎ Təhillīm, Psalm)は『詩編』とも書き、旧約聖書におさめられた150編の神への賛美の詩。日本ハリストス正教会では『聖詠(経)』(せいえいけい)と呼ぶ。
 
ほとんどの詩が典礼に用いられた詩と神への感謝の詩に分類することができる。ユダヤ教では「テヒリーム」(賛美)と呼ぶ。ラテン語詩篇を意味する『Psalmi』は七十人訳聖書における詩篇ギリシャ語タイトル『プサルモイ』(心を動かすもの、複数形)に由来する。ユダヤ教聖書の配列では「諸書」(ケスビーム)の1つ。

 「詩」であるとも言えるし日本や東アジア文化的な意味での「詩」かどうかは難しい。ポエムといったものではない。

詩篇はそれぞれが独立した祈祷文として用いられる。

 というわけで、「祈り」に近い。
 で。

神よ、わたしはあなたに呼ばわります。あなたはわたしに答えられます。どうか耳を傾けて、わたしの述べることをお聞きください。
(口語訳 17-6)

 で、この「神よ」と神に「あなたは」というのが、多分、日本語にこなれていない。日本語で、「神よ」というのは翻訳文体。というか、敬意のある人に「〜よ」とか普通言わない。「先生よ」「部長よ」「お母さんよ」……。「父よ」はなんとなくありそうだけど、その先に「あなたは強かった」とか来るとほらね軍国主義。モードが変に切り替わる。っていうか、日本の軍国主義というのは日本語がおかしくならないとできない。日本人が、普通、「父よ、あなたは」とか言わないってば。
 そして、もっと日本語的でないのは、「神」に「あなたは」と呼ぶこと。
 このあたりがいかに日本語っぽくないかは、学校でも会社でもいいから、目上の人に「あなたは」と言えるかなのだけど、言えないでしょ。
 この「神」が「あなた」である感覚というのは、欧米語では違和感はあまりない。

I have called upon You, for You will answer me, O God;
Incline Your ear to me, hear my speech.
(ASV)

 もちろん、こういうのは日本語という言語構造とかラングの問題ではなく、語用(プラグマティクス)や社会機能、パロールとかいろいろ言えると思うけど、現実に日本語として、「神よ、わたしはあなたに呼ばわります」は、ほぼありえないか、それって翻訳文化のキリスト教口調になって、日本語の普通の生活の場には馴染まないし、その延長では理解されない。
 日本語の場合、信仰というとき、この超越者でも神でも、「あなた」と呼べるかどうか? (実は阿弥陀信仰にないわけでもないが。)
 そして、神が「あなた」という他者であって、それが「どうか耳を傾けて、わたしの述べることをお聞きください」とまるで恋人に言うように言えるか?
 こういうのって、日本人にはうまく理解できないのではないか。もちろん、理解せよとは思わないけど。
 信仰というと、なにか日本人では己を捨てて一心不乱に純粋に信じる、信心みたいになるけど、ユダヤ・キリストの根幹にある神というのは、こういう恋人みたいな他者としてまず存在している。そしてその対話が信仰そのものになる。
 
おまけ
 ⇒What a Friend We Have in Jesus - Wikipedia, the free encyclopedia

What a Friend we have in Jesus, all our sins and griefs to bear!

 これって日本語に訳すとかなり変な感じがすると思う。

エスが友だちっていいな、私たちの過ちや悲しみを担ってくれた。

 かな。イエスもまた「友」であり、Youになる世界。