日記的

 人が自殺して、遺書なりを残すことがある。それが本人の最後の言葉だというのは間違いないが最後の思いであったかどうかはよくわからないと思う。そしてそのわからなさというのはぼんやりと関心を持つ人に、さまざまな憶測というかゴシップが流れ混む。総じて見れば、死者を冒涜したくてたまらないのであり、それは自死へのある自然な嫌悪の表現なのかもしれない。つまり、そうして貶めることで自分の、自殺者への関心への薄暗がりを隠蔽したいのだろう。
 自死者が最後に何を思ったのか。そこは究極のところわからない。というか本質的にわからないものがあり、メタ的に見るとたいていは一種の精神疾患であり自己分裂なのではないかと思う。それはすでに書いた。あのおりのぶくまなりのコメントはざっと見たが、あまりそう思う人はいないようであった。私の疑問のコアは伝わってないのだろうとも思うし、伝わる必要もないのだが、自死者に対するある疑問がさらにある。彼らはなぜ死が確信できたのだろう?ということだ。カリカチャライズして言えば、2ちゃんねるの情報くらいで自殺ができると確信できるというのはなぜなんだろうか。もちろん、それが一つの書き込みなら信じられないのだろうが、それで死んだ人が出る、その連鎖がある、その連鎖がまた情報となってネットにフィードバックされていくというプロセスで、それは本当だという確信が形成されるのだろう。
 私にはそういうのはない。私は科学的な人なので(まったくそうではない矛盾面も持つけど)、どのような毒ガスを作れば死ぬかとかどうすればみたいなことは科学的に理解している。そしてそれを社会的にも確信している。しかし、自分のパーソナルな問題に引き返せばそれはあまり確信していない。この差がうまく伝わらないのかもしれない。
 先の例でいえば、私は、2ちゃんねるでなくてもいいのだけど、他者の情報、他者が結託する信託の構造というのに本質的な嫌悪感がある。みんながそうだということの確信そのものへの嫌悪だろうか。そしてそれがさらに自分のパーソナルな死に結びつくとなれば、論外だせと思う。
 そしてその思想の回路のなかに、自死そのものへの疑いが起きる。私は、常人よりはるかに死を恐怖する人間だが、自死の可能性に微妙に社会や他者の集団への屈服を感じてしまう。私の死を与えるものがそれらであってよいとは思えない。という感覚に、どうも、なにか不定形に私の精神は、神のようなものに向き合っている。私はその神のようなものに背こうとして生きている面があるが、それでもその背きに人や悪魔(比喩)あるいは知性といったものを使うのは、卑怯だと思う。公正ではないという感覚がある。
 神が私を滅ぼすならどうどうと滅ぼせ、それがあたなの意図ですかと、問いたいような思いがある。
 もちろん、こうした思考回路は宗教的な比喩であって、特定の神がいるわけでも信仰をもつわけでもない。
 ただ、その比喩のなかで、私は神に耐えて生きて来たし、結果として私は神に負けて生きているように思える。なぜこんなに生きているのだろう、なぜもっと生きたいと思うのだろう、そしてなにより、なぜ彼を賛美しようという謝念まで起きるのだろう。不可解な感じはする。
 自死に直面するそのさなかで、その人たちの心で、そうした彼/彼女に向き合う神というのは存在しないのだろうか? 私は疑問には思うがよくわからない。
 そして、そうした神のような発想は、私は、この世と、他者への嫌悪の自分の言い訳ではないかという疑念もある。
 それでも、遠く強く語りかけてくるものはあるし、それはこの世が発する「生きよ」とは違った、「生きて見てごらん」という示唆に思える。そうして見えるものは悲惨ばかりかもしれないのに。
 
追記
 ⇒自死について - reponの日記 ないわ〜 404 NotFound(暫定)
 ちょっと重点の置き方が違うかな(私の重点は社会や他者に屈服しないということ)。
 それはそれとして。
 たしかに、私は自分が自分を殺すという発想ない。
 どうも私は、どっかで素朴に、自分は被造物だ感覚がある。
 ヨブのように塵、灰に変えるというのはあるけど、それでも創造者に向き合っている感じはする。