みじめさ
みじめさみたいなものが50歳になってもつきまとうとは思ってもいなかったな。ただ、それを言うなら、20歳過ぎても生きていると思っていなかったし、40歳の自分とか想像もつかなかった。でも、50歳になった。漱石の年齢も超えてしまった。そして、率直に思うのだけど、漱石は越えがたいとは当然思うけど、同時に漱石先生、幼いなとは思うようになった。
ネットにいると、どうしても罵倒というのは受ける。バカだとか、その他いろいろ修辞。でも、ようするに、お前バカだろ恥ずかしいなということなんだが、俺は自分はバカだと思っているし、恥ずかしい人間だなと思っている。
そこを克服しようとはあまり思っていないのが、また、別の人をいらだたせてしまうのかもしれない。
僕は、中学生・高校生のころ、亀井勝一郎もよく読んだ。今にして思うと亀井は浅薄な人だなという思いと、それはそれで立派な人としていいんじゃないかの二面があるにはある。
亀井を通して、私は、最初親鸞を知った。
亀井にとっての親鸞とは、己は凡夫だということだ。凡愚というべきか。
救いような俺というのが親鸞の見つめたものだし、そこまで見つめてみる、ある種の勇気みたいなもののというか、愛欲の世界に埋没している、そういう実相とでもいうものはわかったし、その理解は、なにか不変なるものの視線や光というものに関係しているのかとも思った。
自分では、親鸞によって10代の自殺の危機を救われたような恩義のようなものはある。
この極東ブログのエントリ、今の自分なら書かないと思うけど、それはそれなりに40代の若気の至りで書いた。書いたことに今違う思いがあるわけでもない。
たまにこそっとコメントをもらう。
コメント⇒極東ブログ: 「冥福」は祈らない
全くこのblog主は分かった気になって言葉を
捻じ曲げて伝える事がおすきなようですね。
何人かの方が言っておられますが、
仏教で言う冥福とは葬儀後の冥土に旅立たれた故人が来世や輪廻の行き着く先で仏様の下で安寧と服を祈ることです。
言葉じりを捉えてこの人がこういう言葉はおかしいとか言えた筋の話ではないですね。
何もあやまりでもありませんよ
投稿 | 2008.05.05 02:58
ははは、「捻じ曲げ」ているのだそうだ、俺ね。
そしてこの匿名さんは、仏教を教えてくれるのだ。
「冥土に旅立たれた故人が来世や輪廻の行き着く先で仏様の下で安寧と服を祈ること」がよいことだと思っているのがこの人の仏教なのだろう。
私はそう思わない。
凡夫、苦悩の人間存在が阿弥陀如来にすくい取られ、否応なく極楽浄土に決まると、いうのが、私が信じ得たといえば信じ得た仏教だ。
自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報上の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。
人が死ぬ。往生疑いなしと思う。冥福など祈る必要はない。祈るくらいなら……まあ、いいや。
葬式なんてものは、儒教だ。
門徒の死骸は洞になげうったものだ。親鸞も死体は鴨川に投げて魚を餌にするがよいと言った。
親鸞の遺骨はそれなりにその後問題を起こしたが、それでも信仰集団の基本は墓でも寺でなかった。廟と教えの集会だった。
現代みたいな儒教糞仏教なんてものはなかった。