よくわかんないけど
呼んだ?⇒続・自殺もまた自己表現である - らめぇ
で、私としては、読んだ。(idコール、来なかったぽいけど)
よくわかんなかった。
ダルフールなどで虐殺される人の死と、先進国の自殺の死、それは死という切り口では一緒かもしれないけど、というか、そういう切り口は私には皆目わからない。私は、人が組織的に殺害される状況は人倫というか私の生命観にとっても危機だというくらいしかわからない。
それとね。
そして写真の発表後、ケビン氏は「なぜハゲワシを追い払い、少女を助けなかったのか」という激しい批判に晒され、程なく自殺した。旱魃とともに飢餓の原因となった第二次スーダン内戦はその後さらに10年続き、ようやく終結したそばからダルフールで新たな紛争が発生。すでに18万人以上が殺害され、ここでも深刻な飢餓が進行中である。
ブッブー! (通じてる? 最低値の数が違うよ、飢餓もだけどもっと直接的にひどい問題があるよ、そういうのを雑駁に扱う精神はどうかと思うよ。)
で。
たぶんずれるのだろうと思うけど。
昨日のエントリでもちょっと思ったけど追記しなかったけど。
けどというのは。
少なからぬ人は、静かに消え入るように忘れ去られるように、あるいは姿は見えつつ、良き隣人のようでありながら、その心は凍り付き、死を静かに願うような無意識のなかでフェードアウトちゃうんですよ。
それは自殺には見えない。まるで人生まっとうしたかのように見える。
しかも、本人もそれを絶望の最果てとは思っていない。で、本人がそう思わなければそれでいいジャン的に。
でも、そこが微妙で、その絶望の凍てついた階梯に、ふと、自分が気が付くことがあるんですよ。うぁああ俺、死につつあるじゃん、的に。
そこで地の底から絶叫しちゃうことってあるんですよ。
生きなくてはならないとか倫理とかめんどっちいことじゃなくて、物凄い嵐みたいなものに急き立てられて、まるでこいつ自殺すんじゃねーのみたいな狂気のように見えるというか。
でも、そこから、生き始める人がいるし、生の意味というのは、死のように暴虐な何かの力でもあるんですよ。
「お前、絶望してんだよ、生きろよ、なんのためのマンコだよチンコだよ、マンコチンコマンコチンコ」みたいな世界があるんだよ。そうした狂気みたいなものが生の意味を開示するような何かを、知というのはズルこく死に取り込んでしまうんだよ。
ちがうだろぉぉおおおマンコチンコマンコチンコマンコチンコマンコチンコ!