ちょっと釣られる

 大人げないけど、ちょっと、釣られる。
 ⇒不運と理不尽に襲われたとき、うまく切り抜ける人と、逃げ切れずに酷い目に会う人の違い - 分裂勘違い君劇場

こうして、自然淘汰的プロセスによって、世の中の多くの実力主義の会社は、マッチョだらけになってしまう。

 そうでもない。

そして、そのような世界で、不運と理不尽に襲われたとき、マッチョになる道を選ぶか、ウィンプになる道を選ぶか、それはあなたの自由だ。

 そうでもない。
 これは、一見、数学の決定不能フレームワークのように見える。いや、決定不能じゃなくて、打ち切りの地点が理論的に決定できそうに見えるということ。
 ところが、これは、どうもそうではない。
 短期的には、分裂君が正しい。短期のスパンは10年くらいだろうか。
 20年のスパンを超えると、「そうでもない」が出てくる。
 というか。
 ネタにマジレスっぽいけど、比喩の元の「自然淘汰的プロセス」ですらそうではない。
 ではどうなのか?
 これは現象の共時性をディスクリプティブに見て、それを通時的にアーケオロジカルに整理するといいというか別に気取ったいいわけではなく、たんに20年スパンで全体の変化と生存戦略を見渡せばあらかた結果からわかること。
 あと、すでにこの手の問題は、素人床屋談義ではない部分がドラッカーなどにもあるので、そのあたりを参照するともうちょっと、言い方は悪いけど、マシな結論は出る。

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明日を支配するもの―21世紀のマネジメント革命: P.F. ドラッカー,Peter F. Drucker,上田 惇生
 べたに話を戻すと。
 まず、こうした状況で、実際には、選択の自由というのはない。あったら、そもそもこの前提のマッチョ=生産性が必要とする獲物の子羊というか歯車というかが存在しえない。
 つまり、これは全体が一つのシステムなので、自由というは、システムが必要とする配分の許容性でしかない。
 すると、そのなかでどのように生存戦略があるか、なのだが、同様にこのシステムは子羊や歯車の生存も維持しないとやっていけない。ウイルスが寄生主を殺したら生存できないのと同じ。ただ、全体システムの規模が変わると、摩滅的に殺傷される部分はかなり大きくなる。
 で、その生存戦略はむしろ、「自然淘汰的プロセス」のなかにある。
 基本的にはというか結果的には、種の多様性がそのプロセスの結果である。