弾さんらしい

 ⇒404 Blog Not Found:旧世代より新世代の方がいいと思えるただ一つの理由

 世代を「変数化」しても成り立ちそうなものが少なくとも一つあるので。
 それは何かというと、「選択肢」。マクロ視点で言うと「多様性」ということになるのだけど、私はミクロ視点の「選択肢」の方が言葉としては好き。英語だとそれぞれ choice と diversity で、 choice の方が簡単な言葉ということもあるけど。

 無碍に否定はしないんだけど。

いくら金を積んでも、こういう夜景もなければ、その夜景を眺めるための場所もなかったの。当時も豪邸はあった。番町とか田園調布とか。今もある。しかし、超高層マンションというのは存在そのものがなかった。

 それを選択肢として見るかは生き方の問題に循環してしまう。
 私が20代後半から30代の始め、私淑というほどでもないけど、懇意にしていただいた、年上のカップル(当時は籍を入れてなかった)は、ドが付くほどの貧乏だった。でも、心知った仲間で集まり、楽しい会食をしたものだった。貧乏だから食い物・飲み物の一部は持ち寄った。
 その楽しさにつられて猫まで興奮して、外から鳩を加えてやってきたことがあった。俺だって、ほら、食い物持ってきたぜということだ。わかるよ、猫君。でもその血だらけ鳩を食うには、エジプシャン・キュジーヌが必要。
 楽しかった。
 それも可能な選択肢にはなる。
 格差社会や貧困と言われるし、実際そういう世界は今もあるし、それには社会制度的な対応も必要だ。でも、ちょっと違ったものもあるにはある。
 たとえば⇒Twitter / finalvent: @hidekih 貧しいというのは両義的なんですよ。...
 高層ビル高階は、選択肢というより、一つの想像力の結果だろうと思う。そしてそれらは貧しい生き方のなかでも想像力だけは自由だったから可能になった。
 昨今では、否定的に「脳内なんとか」が流行るけど、人間の人生は時代的な絶対的制約をうける。そのなかで自由であるということは、目先の選択肢の問題ではなく、想像力の無限性へのコミットにある。