どうでもいいけど、ペリー来航

 ⇒はてなブックマーク - 幕末、ペリーが浦賀にきましたが、その際に彼が乗ってきたものは何だったでしょうか - はてなスター大喜利(β)
 大喜利は関心ないんだけど。
 ⇒黒船来航 - Wikipedia

琉球来航
上海で巡洋艦「サスケハナ(サスクェハンナ)」に旗艦を移したペリー艦隊は5月17日に出航し、5月26日に琉球王国薩摩藩影響下にある)の那覇沖に停泊して、首里城への訪問を打診したが、王国側はこれを拒否した。しかし、ペリーはこれを無視して、武装した兵員を率いて上陸し、市内を行進しながら首里城まで進軍した。王国は仕方なく、武具の持込と兵の入城だけは拒否するとして、ペリーは武装解除した士官数名と共に入城した。ペリー一行は北殿で茶と菓子程度でもてなされ、開国を促す大統領親書を手渡した。さらに場所を城外の大美御殿に移し、酒と料理でもてなされた。ペリーは感謝して、返礼に王国高官を「サスクェハンナ」に招待し、同行のフランス人シェフの料理を振舞った。しかし、王国が用意したもてなしは、来客への慣例として行ったものに過ぎず、清からの冊封使に対するもてなしよりも下位の料理を出すことで、暗黙の内にペリーへの拒否(親書の返答)を示していた。現在でも多くの国が来客に対して使う手法である。友好的に振舞ったことで武力制圧を免れたものの、王国はこの後もペリーの日本への中継点として活用された。この当時の記録は琉球側がまとめた『琉球王国評定所文書』に詳細に記されている。

 日本国は明治期に琉球国を併合したわけだけど、だから、日本国というスパンは琉球国史によって広がったし、さらにアジア近代史の流れからも、上の事項は近代日本人が普通に知っていなくてはいけないのことなんだけど、さて、中学校とかで教えているのだろうか。
 日本史っていうのはこういうスコープで再構成しないといけない。
 ついでにこれも知っておくといいかも。

小笠原探検
ペリーは艦隊の一部を那覇に駐屯させ、自らは6月9日に出航、6月14日から6月18日にかけて、まだ領有のはっきりしない小笠原諸島を探検した。このとき、ペリーは小笠原の領有を宣言したが、即座に英国から抗議を受け、ロシア船も抗議の為に小笠原近海へ南下したため、宣言はうやむやになった。後に日本は八丈島住民などを積極的に移住させることで、列強から領有権を承認されることになる。6月23日に一度琉球へ帰還し、再び艦隊の一部を残したまま、7月2日に3隻を率いて日本へ出航した。

 ま、なんだかんだいってもウィキペディアはたいしたもんだな。
 そういえばサンクトペテルブルク日本語学校というか東洋学部の日本語って、江戸時代に出来ている。つまりその時代にロシアに日本人がいたりする。で、こうしたことが背景になっていて、ペリー以前にロシアの日本アプローチのほうが厚い。そのあたりも近代史もどうもうまく整理されていないように思えるけど、どうなんでしょ。高校とかで教えているのだろうか。