その前のtwitter発言のメモ

 ちょっと散漫。だけど、そもそもtwitterで議論めいたい話もいかがなものか的な感じはする。でもま備忘を兼ねて。

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 なぜ、少女たちは売春するのか? という問いがあるとして。
 少女の売春の一番の動機は情報ではないか。半径1mが全員OKだとそうなってしまう空気の権力というか自然な空気ができる。なので制御のポイントは情報の信頼性の制御の問題かもしれない。
 ただ、少女売春というのは、日本歴史に組み込まれた問題かもしれない(中絶も同)。一例だが、新渡戸稲造が書いた戦前の一般向けの人生論に、性の関心だけで風俗に入る女性を戒める話があり、驚いたことがある。新渡戸の単純な勘違いか偏見なのかもしれないが、そうした歴史研究は空白のように思えた。
 売春が問題視なりテーマ視されるとき、前提に他の類縁的な行動との違いが含み込まれる。例えば、売春と恋愛の差は大きな違いがあるという前提。そしてその前提というルールで議論も成り立つ。だが、その差は僅差というのでも議論は成り立つ。恋愛と売春の差はその人によるというのも議論がなりたつ。そういう可能性の議論において隠蔽されているのは、実は、話者の措定ではないか。もっと露骨に言うなら、彼/彼女は、売春と恋愛を語ることでその話者の存在を強要しているだけの可能性はないのか。というのは、売春であれ恋愛であれ、その根にはどうもイデオロギー臭い匂いがする。
 もし、そうなら、この議論は、売春なり恋愛というのをモデル化して実態と照合する作業が先行するはずなのではないか。だが、それすら許されないような何かが重苦しく感じられる。さらに、ネットでもイデオロギー的な方向に議論が収斂し結局は話者へのバッシングが予定調和的に設定されている薄気味悪さがある。
 売春は金銭授受の関係だとモデル化できそうだが、そうではない関係にも金銭的に近い利害の関係は薄く広がっている。もっと言えば、若い男女が実際にはそれほど好きでもないのに複数の性行為に及ぶし、そこに利害の調停の意識が介在している。なぜなのか? つまり、薄い利害の関係の延長に売春がなんとなく来る程度なのか。
 恋愛ではないような薄い広範囲な、それでいて利害も関係するような性関係が実際に常態化しているのは、若い男女が性の自覚の経験値を上げるというか自己内部の対性観の身体的な定着過程に関係しているのではないか。性への関心から対性への具体的な対応を学ぶ、むしろ人間種の特性というか。
 だが、実際には、そうした個人の身体・性・意識が行動を性行動パターンを規定しているのではなく、むしろ社会の利害が最終的な調停になっているように見える。(実態調査をすればそういう結論が出そうだという意味)。
 すると、対性観の身体的な定着過程には、端的に言えば肌が合うメーティングもだが、さらに、社会関係・利害関係という性のマーケットで自己性の金銭的な価値を定める過程が存在する。
 最終的なある種の利益への予測が性行動を決めているのだろう。
 とすれば、短期金利的または長期金利的なバランスがあって、長期の場合は結婚と言えるだろうか。
 逆に短期金利的な結婚はないか。
 そんなことはない。それらはまさに社会の利害と権力によって配分されることになる。つまり、長期金利型結婚が上位の社会階層を作り出し、そこから排除された低い社会格差の枠内に短期金利的な結婚が収まる。
 もう少し実態的に言えば、結婚式の看板のように結婚とは「××家と○○家」の関係であって恋愛ではない。恋愛は、「××家と○○家」の関係から排除されたものであり、その延長の社会制度が売春というか、婚姻関係から排除された労働者の性の型嵌めなのではないか。
 なお、「××家と○○家」の関係において、女は子供を産むことで男の家の資産に対する権利を固める。
 これに対して、元来資産のない(あるいはないに等しい)男に対して、女はどういう行動を取るか? というかこの問い掛けが逆なのだ。有無の問題ではなく、スペクトルが形成され、いくつかの閾値で恋愛であったり広範囲な性行為であったり売春であったりする。が、その逆スペクトルでべたな商関係が組織化される。
 商関係という逆スペクトルで見れば、売春の合法化は米国みたいな変な宗教圏でなければ事実上は存在するし(米国でも州によっては存在する)、たぶん、EUでは当たり前になるのではないか。
 実際のEUは、結婚制度、あるいは売春制度、というふうな極を持つのではなく、フランスのPACSのような緩い結婚的に自由な性関係になり、つまり、家の資産から開放され、その過程で子供がコミュニティか国家に吸収されるかもしれない。なんとなれば、家の資産とは子に対する投資だからだ。
 日本ではどうだろうか。
 日本で売春が合法化されないのは、それによって守られるべき既得権益としての、市民社会みたいなものがあるからなのだろう。つまり、基本的にモラルより利害だろう。では、なぜ今の日本国家がこの方向に進んでいるかなんだが、きっと将来的にその利害の破綻の見込みがあるからに違いない。
 これは非婚社会のメリットにも関係しているだろう。おそらく資産を増大させる要請のない階層の「家」では、その単独の継続化が進行している。たぶん、深層心理的には父娘相姦的なものを経済的制度が支援しているとも言えるだろう。つまり、子に対して、性的に独立してはならないという暗黙の権力があり、社会はその慰撫を提供している。
 国家に集約される権力と収益の源泉の階層的な配分が諸規定を生み出す。性の制度も同じだ。だから、誰のための制度で、誰に利しているか。誰を将来的に、最下層に押し込めるための制度なのか?
 ぎりぎりまで踏み出して言えば、国家内の売春との関係で、国家間の性的な人身売買が進行しうることが問題なのだろう。