それは受け止め方の一つだと思いますよ

 ⇒ブロガーの多くは僕が思ったよりずっと健全 | 住 太陽のブログ
 わからないではないけど。
 それと、釣りっていうこともあるのだろうけど、また釣られるよ。と。
 最初に住さんが出された問い掛け「ブログ書いてるってキモくね?」みたいのは、多くの人がそれなりにいろいろに受け止められる広さがあったと思う。
 で、このエントリだけど。

といった感じでしょうか。この反応を見る限り、反応してくれたブロガー諸氏のほとんどは、まったくキモくないか、または自分がキモいかどうかということについて特段の悩みは持っていないように見えます。

 と見えてしまうのは、そうなのかもしれない。
 けど、住さんがそう見えたことと、そういう人達なんだとタイプ分けして、しかも、住さん対健全ブロガーというふうな世界観を提示されると、そこで、なんというか、終わりなんですよ。
 きゅーっと狭くなってしまう。
 まあ、たいていの話がそんなふうに終わるものっていうのもあるかもしれないけど。
 たぶん、住さんは自身に関心を持っているか、あるいはそういう世界を知りたいというツールとして他者に問い掛けたりタイプ分けしているのだろうと思います。でも、他者というのは、そういう存在じゃなくて、もっと多様なもので、たとえば、今回のエントリでまとめられているかたのエントリについて私も読んだけど、へぇ、弾さんはそう考えますか、みたく他者をそのまままず受け止める。
 たとえば、私について言えば。

つまり(僕を除く)多くのブロガーは、自分の承認欲求や自己顕示欲を当然のことのように肯定できている。

 のではなく、一種の絶望感なんですよ。で、たぶん、引かれているNOV1975さんはそういうニヒリズムとは違っているでしょう。
 まあ、でもそこを掘るんじゃなくて。
 誰も、というかブロガーの少なからずが、キモイかなと問われれば、キモイっていうのはいちおう織り込んでいるけど未決部分はあるしと思うから応答するわけで、その未決部分というのが結果的にコミュニケーション、ブログのコミュニケーションね、そういうものを生み出している。
 というシーンで、ちょっと責める言い方みたいだけど、「住さん」の内面的な感受を対比的に論じられるのは、違うかな、と。
 繰り返しになるけど。

僕の自己肯定感の揺らぎは、あくまでも僕自身の問題でしかなく、大多数の人には無関係であるということは、僕にとっては福音です。呼びかけてみて本当によかった。反応をくれた皆さん、ありがとうございました。

 それは違うよ。みな「僕自身の問題を抱えている」しそれは未決部分を含んでいるから、コミュニケーション的に表出されている。そういう部分を読み取って、その誰かに関わるとき、たぶん、感謝の言葉が内面に充足的に響くと思う。