そういえばこれも知らない人がいるんだよな

 これ⇒これからの敬語(昭和27)
 これがけっこう面白い。

基本の方針
 
1 これまでの敬語は,旧時代に発達したままで,必要以上に煩雑な点があった。これからの敬語は,その行きすぎをいましめ,誤用を正し,できるだけ平明・簡素にありたいものである。
 
2 これまでの敬語は,主として上下関係に立って発達してきたが,これからの敬語は,各人の基本的人格を尊重する相互尊敬の上に立たなければならない。
 
3 女性のことばでは,必要以上に敬語または美称が多く使われている(たとえば「お」のつけすぎなど)。この点,女性の反省・自覚によって,しだいに純化されることが望ましい。
 
4 奉仕の精神を取り違えて,不当に高い尊敬語や,不当に低い謙そん語を使うことが特に商業方面などに多かった。そういうことによって,しらずしらず自他の人格的尊厳を見うしなうことがあるのは,はなはだいましむべきことである。この点において国民一般の自覚が望ましい。

 これって私が子供のころ国語に鋭敏な人達が一応に普通にもっていた感覚だった。戦後民主主義のある共通体験というかがあった。
 敬語というのは、「これからの敬語は,各人の基本的人格を尊重する相互尊敬の上に立たなければならない」ということなんだよ。
 敬語によって「しらずしらず自他の人格的尊厳を見うしなうことがあるのは,はなはだいましむべきことである」というのも。
 昨今の正しい敬語とやらは、戦後のこういう歴史を知らないで、擬古的な規範を言い出している。

9 学校用語
 
1) 幼稚園から小・中・高校に至るまで,一般に女の先生のことばに「お」を使いすぎる傾向があるから,その点,注意すべきであろう。たとえば,
     (お)教室 (お)チョーク (お)つくえ
     (お)こしかけ (お)家事
2) 先生と生徒との対話にも,相互に「です・ます」体を原則とすることが望ましい。
  付記
  このことは,親愛体としての「だ」調の使用をさまたげるものではない。
3) 戦前,父母・先生に対する敬語がすべて「おっしゃった」「お――になった」の式であったのは少し行きすぎの感があった。戦後,反動的にすべて「言った」「何々した」の式で通すのもまた少し行きすぎであろう。その中庸を得たいものである。たとえば「きた」でなく「こられた」「みえた」など。

 その中庸がついに実現されなかったというか、これは言葉の問題というより、市民社会の問題だったように思う。
 ついでに。
 些細なことだけど⇒7 形容詞と「です」 :

これまで久しく問題となっていた形容詞の結び方――たとえば,「大きいです」「小さいです」などは,平明・簡素な形として認めてよい。