北村薫は

 これしか読んだことがないか、他は忘れているかだけど。

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スキップ (新潮文庫): 北村 薫

昭和40年代の初め。わたし一ノ瀬真理子は17歳、千葉の海近くの女子高二年。それは九月、大雨で運動会の後半が中止になった夕方、わたしは家の八畳間で一人、レコードをかけ目を閉じた。目覚めたのは桜木真理子42歳。夫と17歳の娘がいる高校の国語教師。わたしは一体どうなってしまったのか。

 私は北村の世代より若いので少し感性が違うし、今私は50歳になってしまったわけだが、この物語を主人公のように42歳くらいで読んだとき、なんてリアルなんだろうと思った。リアルというのは、普通に生きていて、42歳のある日、自分が17歳からふっとそこにいるように思えたのだ。ファンタジーのように読まれることが多いのだろうが、この物語は、けっこうリアルだと思った。
 ただ、著者が男性であると後に知り、そしてそうではないかとも思っていたのだが、少女とおばさんの心と時間と大人であることで失った何かに対する感性に微妙なズレがある。ちょっと露骨にいうと、女性はこの年月で性的にエロス的に成熟する、あるいは成熟することが可能だ。
 だが、この本の読者はむしろ女性が多いらしい。女性にそのまま支持されるというより、これは下品な言い方だが、ある種のエロス性の未成熟みたいなものは、存外に広く存在するのかもしれないとも思った。
 その点、男は、どうもそういう意味でのエロス性の成熟というのはあまりないのかもしれない。男で、中年過ぎてもいろいろ女を物色するのがいるけど、エロス性の成熟というより自我と母子関係のトラウマのようにも思える。まあ、ご勝手にの領域でもあるのだが、意外と社会的迷惑な問題かもしれない。ま、それはどうでもいいが。
 吉行淳之介の文学など、女たらしというか女に向き合ったエロスの文学のように読み違えされることがある。吉行にとって女というのはそのままつまり子供のままの恐怖と憧れだった。大人になってしまった吉行にとって性はむしろそうした自身の風体の虚構ですらあったかもしれない。吉行はいつも玩具売り場の中にいたかったし、病んだ体としていつもそこにいた。女はそうした玩具でもあったし、裏切られ続け、泣き続けていた。