そういえば自分は子供の頃から公平性に敏感だったか

 そうでもないか。
 今でも覚えているが、小学校五年生のとき、自由研究で、労働基準法をやった。まあ、それはそれでどうでもいいか。
 自分が好意を覚える人に対して、なんというのか、知識を呟くことができるが、その先はどうなんだろう。
 一昨日の⇒finalventの日記 - 媚びない女とか
 だが、これを面と向かって言えるか。あるいはブログという地平だったら言えたか?
 これを書いた理由というか、自分を、ぐっと押したのは、率直にいうと、「自殺」というタームだった。そんなことで死なないでくれというのがあった。
 弁解がましいが、死というのをもてあそばないでくれとは思う(もっともその禁忌に対して自分は自堕落であるが)のは、それがどこかしら「公」というか、友愛に関連している。
 というところで、一つ踏み込んで言うとき、そこの踏み込みには友愛に対する自己評価がある。
 ここで。
 特定の他者、あるいはブロガーにネガコメとか投げる人の場合、投げる対象との関係性はどのように内的に了解されているのだろうか。ある種の侮蔑感だろうが、心理構造としては友愛のねじ曲がったものだろう。
 私も、けっこう罵倒を投げかけてきたし、それゆえに誤解もされてきたが、基本的には、朝日新聞だの「公」の側面を持つ場合ではなかったか。
 こうした問題は書くと自己弁護っぽいし、例外はあるのだろうが、どうもそのあたり、というか私の「公」への感覚や「公平性」の感覚はあまり伝わっていないように思われる、というか、その前に立ち上がる、私に向けられる奇妙な憎悪のようなものと、たぶん私の無意識は共犯関係にあるだろう。
 ただ、最近は枯れてきているかな。
 というのと、私へのスルー感もあるな。
 まあ、ご自由に。