主観というか主体性というかつまらないことなんだが

 うまく切り出せない話でもあるが。
 たとえば、私が誰かを好きだとする。しかし、その誰かというか相手は私を好きではない。あるいは、対象が歌手とかだったりすると相手が自分をどう思うかということはない。
 ここで、子供のころから逡巡することが2つある。
 1、相手がどう思うかということは、自分がその人を好きだということとあまり関係ないことではないか。
 2、相手が自分を思うことはないというポジションで相手を好きだというのはそれはそれで変だ。
 くだらない、些細なことのようだが、この問題はよくわからない。
 たぶん、「好き」というのと「憎む」というのも同じだろう。
 ただ、相手がどう思うかということと、自分がどう思うかというのは、同じ地平でリフレクトしているように思う。つまり、それはそういう問題(マター)であって自己評価の問題(マター)ではないように思う。
 というか、基本的に比較による自己評価というのは、なにか主観というか主体性のある種の病理のようにも思えるし、そうした病理性というのはかえって、そうした関係性のなかに介入する強迫のようになっているのではないだろうか。
 というか、ネットというのはそうした病理性を増幅する可能性は高いようには思う。
 ちょっと補足というか。
 私は、世間の人が評価している人でも、まったく評価していないことがあるが、その場合、ある種の無関心に近い。そして、そういう評価の関係性のなかでは、基本的に、アカデミズムを先行させることが多い。ただ、そういうマターについて、ここで書くことはあまりないので、自分の心情に近い人を評価することにはなる。
 うーん、うまく言えてないが、評価というより、敬意かな。
 たとえば、林秀彦は、これとか。
 これ⇒「 この国の終わり 日本民族怪死の謎を解く: 本: 林 秀彦」
 もうついていけない。
 ただ、そうした評価が彼への敬意を損じるわけでもない。