少女に恋した少年時代

 というのがあった。
 そして、記憶にもある。
 それほど大切な記憶でもないし、消えてもいいと思うし、でも消えてくれないというのもある。まあ、どうでもいいやというのもある。
 で。
 その、少女に恋した少年時代の記憶というのは、その記憶のシーンの情感にいるとき、私は、そのまま少年なのだね。
 その思いがフラッシュすると、20代後半以降の人が、おっさんおばさんに見える、思える。なんか意識がチェンジしているっぽい。
 その意識だけど、中二病的なものではなく(それはそれであるけど)、高二病(そんな言葉があるのか?)というのでもなく、なんというのかぎりぎりティーンの感覚になる。(もっとも今から30年前のそれであって現代の子たちのそれではないと思うけど。)
 なんだろ。
 20歳になったとき、ああ、大人になってしまった、うぁあわわというのがあって、どうしていいのかわからなくて、混乱していたあの感覚の、ちょっと手前の感覚の空間。そこが、瞬間冷凍みたいになって今でもそのまま意識にそのまま残っている感じ。
 ちなみに、それからいつ人生が始まるのかと思っていたら、25歳の時にずどんとサドン・デスでした。その後、生きてはいるし、まあ、ある意味よく生きているのだけど、ちょっと別の自分という感じもするが、アトレーユ、それはまた別の物語である。
 で、そのぎりぎりティーンの時の、あの、少女に恋してしまう感覚がなぜ今も新鮮氷結みたいに存在するのか、どうも、よくわからん。
 いや、よくわからんじゃなくて、オッサンみんなそんなものを持っているから、若い子にあれとかこれとか、また人によっては少女相手に性犯罪とかしているのか、と、言われたら、別に反論しないというか、まじわかんないのだよ。
 わかんないというのは、性的な問題はあるけど、それ以前に、少女に恋した少年という恋の感覚が先立つ。だから、性的なものへの怯えがある。
 (だからそれってロリータ問題とか、アメリカンビューティとか、とかそういうことかといううとよくわかんない。)
 親戚とか知り合いとかに、あれですよ、幼なじみと結婚したやつとか、高校の同級生とかと結婚したやつとかいるけど(そしてなぜか大学の同級生というのは私の周りにはいない、いるもんですか?)、あいつら、40を越えておセックスとかするとき、記憶のどっかで少女に恋した少年時代とか少年に恋した少女時代の感覚とかが、その肉体のなかに思い出せるというか、どうなっているのでしょう? 40越えてたらおセックスとかしない? いやそこもよくわかんないな。しているでしょ?
 あと、少女に恋した少年時代の先に、その人生がサドン・デスを迎える25歳の時の恋の感覚というか、25歳の女性に恋するような感覚も、いまだに別層にある。というか、どうも私の意識のなかで女性はあまり歳をとらない。
 (ヨン様熱愛オバサンというのはそういうものか。つまり、オメーも同じというか。)
 川端のアレとかも、そういう問題だったのかも。
 アレ⇒極東ブログ: [書評]事故のてんまつ(臼井吉見)
 あるいはコレとか。
 コレ⇒極東ブログ: [書評]秋日子かく語りき(大島弓子)
 よくわかんね。
 というか、だいたいそのくらいの年齢になると子供がその位の年齢になるわけか。
 まあ、よくわかんない。
 というか、こういう問題って、どうもよくわからん。