将来に希望がないというより
個性化の問題かな、と、最初に結論を書くと、突飛だな。
希望格差社会みたいにも言われるが。
希望というのは、個性化の問題でもあり、つまり、個性化というのが、どうもうまく扱えないということかな、と。
学問の世界でいうと、学問というのは原則としてユニヴァーサルなんで、どれだけでも学びたいというならネットでかなりのことができる。最後のつめは、お師匠さんとこに駆け散じてイスラエルでもスペインでも行くとすればいい。そういう意味ではけっこうなんでもできるのだけど、なんか希望ってないよねということになる。学問以外でも、まあ、けっこう道は開けている。なのに希望ってないよね、ということだが。
それって、「僕らの希望」「私たちの希望」ってことで、つまり対象化された希望だし、そのあたりは小削りにしてメディアがくれたりくれなかったりする。
でも、基本的に「私の希望」というのは、「僕らの希望」「私たちの希望」とは違うわけですよ。
「ああ、これで社会放り出されてもいいや」って思えるくらいのことがないと希望なんてないですよとか、ハードルを上げるわけじゃないけど、所詮人は一人で死ぬわけで、その死をどのくらいするか、と、もちろん、曖昧にしてもいいのだけど。
先の学問の例でいうと、希望がないんじゃなくて、能力がないってことだし、能力っていうのはたいていは家柄の問題ですよ。それ自体が格差じゃんとか言われそうだけど、現実はそうなんだもの。もちろん、例外はあるし、まさに例外こそ希望じゃんというのはあるわけで、どうぞ、進め!だけど。
モテとか非モテとかも、女性とか男性とかいう平均値というか類的なものにモテたりしてもそれはむしろお商売というもので、性の問題ではないのだけど、なんだかな。
というところで床屋談義に流れていくのだけど。
食い物とか、基本的に、食えればいいというのはあるし、調理とか料理とか、普通の人はそんな手間なんかあるわけない。で、じゃ、どうかというとレディメードにするしかないわけで、標準化は進む。いい悪いじゃなくてそうもんというか。
話がだらけすぎだけど、個性化というのは、孤独ということもあるし、孤独に居直ったり寂しくなったりということだから、ブレというのは必然的にあるし、ブレない人ってなんか目がいっていたりとかあるし。
ああ、で、メタ結論をいうと、希望というのは、身体が普通に生きて死んでいくことですよ。この普通というのが希望と同じですよ。それに才能とかある人はそれなりにチャンスがあれば社会に反映してみるといいと思うけど、そんだけのことかな。そんだけというのは、身体基礎が大きいように思える。アニメはキチガイでなければやっていけないというなら、見る側でいいじゃん。