梅雨らしい日が続く。そういえばパリ祭か。
 雨音を聞きながら、その雨粒を思いながら、小さな変化が積み重なって時の経過ができるのだとは思う。が、その積み重なりはその時々の思いの大きさや遠近感を伴ってこない。記憶は感情でできているからだろうか。記憶の風景は、なにか間違った美術館の中をさまよっているように感じられる。
 昨日も以前に比べればけっこうな距離を泳いだし、その疲れも残っているのだが、以前のような疲労の蓄積感は少ない。そういえば50mも泳ぐと少し息があがるのだが、それもリカバーが速くなったようでもある。体力が回復しているのならいいというか、自分に期待したい面もあるが、こうした期待は若い時の肉体への期待とは違ったものとなるだろう。
 50歳にならんとする。かつの自分の意識から考えれば、小汚い存在のようにそして遠いものに思えたが、実際それが近づくとそうでもない。もちろん、認識の歪みはあり、身体意識とのズレが社会に迷惑にならないように、ある程度行動様式を変えないといけないのだろう。
 というか、こうしたネットでの活動でもそうかと先日思った。もともと、私は、今の言葉でいえば厨房みたいなところがあるが、そうとばかりもしていられない。
 昨晩、ぼんやりネットと自分の関わりを思った。たぶん、この思考領域からはあるいは思考過程からは何にも出てこない。むしろ、関わり方の具体的なありかた、行動を変える時期もあるのだろう。それが何か。
 「はてな」についてはそれをどう考えるか。それほど大きなものと考えなくていいだろうというのと、関わりの部分をどう考えるかが難しい。これもまた遠近法の狂った絵を見ているようだ。
 ようするにネットとは言っても人との関わりなのだ、と、そう言い切りたいところもあるし、そういうふうに軸を据えて考えたほうがいいのかもしれないのだが、そこが常に微妙だ。
 関わる人という側面でも、なかなか一律には見えない。