人文系学問でちょいと

 ⇒猫を償うに猫をもってせよ - 佐藤良明辞職

人文系学問などは、そう多くの人間がやらなくてもいいのだ。

 ちょっと迂回すると、理系の学問というのは、初等のべたな部分は変わらないし、私が20代後半から30代にかけてやっていた回路設計関係なんかもべたな部分は変わらないし、依然基礎ではあるけど、実際の現場で使う技術ではなくなってしまったというか、ああいう基礎技術はソフトのなかに組み込まれてしまった。JavaなんぞもUMLになにかかぶせれば自動生成できるんじゃないか、知らんが。ま、理系の学問というのは、ある意味で空しいなとも思った。先日、実家にある回路設計関連の技術書をだいぶ捨てた。
 はてなで「理系」と言われてるものは私はけっこう文系的に見える。理系的な考え方というのは文系的ってことだと思うのだけど、まあ、この手の議論は我こそは理系大明王なりみたいな人が出てきてお前なんかお前なんかお前なんかとか言われるのがパターンなんで略。
 でと、文系的な学問というのは、なんというか、40歳過ぎるとけっこう味のあるものですよ。もちろん、文学研究とかその他文系的な研究者になる気なんかさらさらないけど、優秀学者さんがなんか資料をまとめてくれると、ほぉほぉ、それは面白いとか思う。というか、いろいろ面白い部分はある。れいの黒いアテネとかも実は日本に適用される方法論部分があるのだけど、ま、よほどの天才でもないと恐くてやらないでしょう。
 私は十代のころよく詩を書いた。短歌や俳句とかも。いろいろ先生とかにも見て貰ったりもした。二十歳になってやめた。恥ずかしいじゃん。でも、こっそり英語で詩を書いていた。M教授が知っていろいろ個人的にというか教えてもらった(この話は以前書いたと思う)。世の中に出てからは、詩とは縁がなくなり、さらに、関心もなくなったが、このところ、ときたま、英詩が思い浮かぶ。奇妙なものだな。そしてそれは思わぬ豊かさのようなものはある。M教授はご存命だろうか。ご存命だろうな。ありがとうございました。