日記もブログもそれなりに長いこと書いていて
もう言うべきことは言っちゃったかというのと、言えない部分はあるなというのと、どうでもいいやもある。
日記のほうでは、ああ、そのネタのコメント、もう書いちゃったしとか思うと、スルー。
で。
スルーしていいのかと思うけど、それはそれでいいのかも。
というか、私は前に進むよ。
何が前だかわからないし、そういうとき、私は人に猫背を見せてとぼとぼと歩き出すのだ。っていうシーンが我が人生多いな。ひねくれ者というのはあるのだろうけど、なんかそこにもう居られないやって感じがする。
こないだちょこっと書いたけど、私はfinalventに少し別れを告げている、という感覚というか、finalventはかなりの部分マシーン的でしょう。そして、たぶん、マスコミ情報や、いわゆるネットの情報操作の手口に少し聡くなった。だから、その機構に対抗的に機構として語る部分がある。対抗といっても敵対というのではなく、ある意味ではシンクロ。そして、そういう技能というのは、できるだけ、私の部分を減らして、finalvent言説マシンを冷徹に動かす必要がある。ある意味で、それなりの戦闘モードなんだろうけど、そこで本当は支えている「私」というのはそれほど、そうした言説機構のfinalventが好きというわけでもないな。
森有正が、自身について、雨の日に部屋のなかでじっとしているのが好きなんです、と言っていたのがなんとなくわかる。そして彼はオルガンも好きだった。森有正言説マシンというか修辞マシンとその彼とは完全な祖語ではないが、彼は彼の帰る経験のコアのようなものがあった。
まあ、その他私が馴染んだ著作者たちも、ときおり、そうしたコアの感覚を見せた。そこには孤独があったし、その孤独は、なんというのか、彼らを取り巻く人より、遠い小さな読者である私への愛情のようでもあった。彼らは、自分の言葉が遠く、小さい人に通じる日を確信していた。その確信がどほどか正しい理由として私がいる。ただ、その語りの部分のマシン性と、愛情と孤独の奇妙なバランスというものがある。
うまく言えないが、むずかしい問題があるなと思う。もうちょっというと、遠い小さい人を愛そうとするのは孤独の言い訳かもしれない。でも、孤独はいつもそこにあるのだし、その孤独は、遠く小さい人に開かれていく性質はあるように思える。