曇天、でも晴れるか、雨っぽいな

 昨晩は食事がステーキだったのでワインを少し飲んだ。このところ寝る前に乾きをいやすようにビール小瓶を一つ飲むが習慣的になりそうなので、やめてお茶でも飲んだ。寝付かれないだろうと思ったが、早々に寝てしまったようだ。
 朝起きると、うひゃまた全身筋肉痛。身体は疲れていたのか。前回ほど痛くはないが、なんか歳かな俺とか思うが、朝立ちは良し。
 若いフリもできる歳ではないがそう身体が老いてもいない。心の老かたはなんとも微妙だ。うまく言えないが、恋のような狂気ではなく、静かに人を愛したり、あるいは世の中できるだけ平和であってくれ(私は消極的な平和主義だよ)と思う思いのなかにこの世にあることの切なさというか老いがあるな。
 さて目が覚めて、と、ケータイでfeecleにアクセスし、起床、とでも書こうかと思ったらメンテらしい。なんか少しさみしいような感じもした。みんな起きたかぁ月曜日。
 ぼんやりとネットを見るが、さして心にひっかかることなし、新聞社説なども巡回する前にぼーっとする。いくつか書くと炎上するようなネタがないわけでもないなと思うが、弁当さんはすっこでよっと♪かな。
 たまたまはてぶ人気を見たら「池田信夫 blog はてなに集まるネットイナゴ」があり、昨晩のエントリだったのか。昨日は見てなかった。アイロニカルにけっこうなぶくま人気になっている。批判ではないが池田さんはもうちょっとネットのフットワーク感があるかなと思ったが、まあそれも芸風というところか。この話題も、弁当さんはすっこでよっと♪カップヌードルカップヌードル
 ぼうっと、システムと思想について思った。まあ、あまりまとまらない。昨日「finalventの日記 - なんとなくはてなの暗さ重さを感じるようになった」を散漫に書いた。いくつか整理して書くべきことだろうとは思う。とういうのも、すでに私は、システムが集合知をハーネスしうるというのを前提としている。ツールが思想に影響を与えるとは面妖なという風情であるが、考えてみれば、印刷と聖書はそのような関係にあった。中世においてまた初期教会においても聖書というのは読まれていなかった。トルコを旅して初期教会やその後の東方教会を巡りながらキリスト教とは紙芝居とまではいわずともイコノロジーというか、絵と絵による語りの世界であったと思った。そしてそれは西欧においてはつい最近までそうであったのではないか。キリスト教とのはグラフィックな宗教だった。
 が、聖書が印刷された。印刷というシステムにおいて、Sola Scripturaの意味が変わった。これは本来は解釈権は教皇が持つということだ。が、それが、ただ聖書のみとなり、経典と人々の関係がフラットになった。その意味で、フラット化というのは、まさにここにあった。仏典なども似たようなもので、特に日本に限定さればそれは音声として読まれる呪術であったし身体技法であったが、それが天台の学問化からフラットな経典になった。天台そのものが仏教のフラット化でもあったのだろう。なんかこの話が長くなりそうなので略。
 そういえば、私は「 二十歳の原点: 本: 高野 悦子」ティーネージのころ赤い傍線を引きつつ泣きながら読んだものだった。姉萌えっぽい面もあったか。今でもあれは読むのが悲しいしなかなか読まない。で、私が高野悦子に求めたのは、ある意味、今のはてなや増田のようなシステムがフラットに私に告げる、なんというか、普通の人の生きがたさの痛みや喜び(嫁とのセックル快感とかね)だった。
 いかにもfinalvent風にいうなら、価値のある言論が糞なのである。名文がゲロなのだ。人はもっとフラットにそのドアの向こうに立ちすくんでいる裸の恋人の声が聴きたい。それを聴くことで生きられたり繊細な正直さとでもいうべき倫理をCastle of Cardsにしていく。
 おそらく罵倒や憎悪とは、私自身にも公平以上に配分された孤独や痛みだ。それを癒すというか応えるには孤独や痛みへの渇望が起きる。だが、それがうまくつながることは少ない。