ブログから書籍化へのパスは編集者という存在が問われているところ

 だと思う。
 また、このネタやると、変なの湧いてくる、いらっしゃーい、状態になるかもだけど。
 いわゆる文章がうまい文章、つまり、イコール、お商品、っていうのは、つまり、書籍なわけですよ。書籍化できるくらいいい文章を書けよ、と。
 で、これはネタの問題もあるけど、ここで、つまり、ブログから書籍化へのパスは編集者という存在が問われているところだと思う、最近。
 編集者ならわかるけど、まあわからない編集者もいるけど、2つのことを思うはず。1つは、売れるかコレ、もう1つは、その文章に魅力があるか。魅力があれば、その魅力からどういう文体にすればいいのかを援助するのが編集者で、その援助に命を懸ける。いわゆる文章読本的な文章論のレベルの問題は、編集者ならさらっとフォローできる。問題はそういう表層的なことではなく、その文章を書く人間、人間の妄念に、文章をどう介在させるかという一種の産婆術。
 で、ブログをか見渡すと、そういうレベルというか、これはすごいっていう話はある。編集をかければきちんと本になるというのはある。ただ、それが売れるかというと、売れないでしょとなる。魅力のある本ならいつか売れる、という信念の微妙な水準で折れているというか、それはもしかすると、ずっと折れっぱなしかもしれないというのが、これからのブログシーンかも。
 出版がどうしても博打化してくる。それと産業化しているのでそれなりのリソースを回していかなくてはならない。つまり、適度に売れる作家に仕事を与えて食わせないといけない。そのあたりの経営配分が微妙になっている。
 米国だとそれがさらにひどくて、実質本になるレベルが高すぎ。ああなったら日本で食える人はかなり減るだろうと思うが、まあ、文化が違うでああはならないでしょ。
 で、編集者という存在が問われているといってもなぁ、というのが現場の編集者でしょう。というか、そういう文化になったのでしょう。
 一つには、編集者としてキャリアを積めるのが、なんというかオールド教養やや左よりくらいなものか。そしてこの路線は、図書館ともつながって、出せば捌ける仕組みができている。
 団塊世代は薄ら左翼が多いので、そのあたりで、いわゆるキャリアの編集者が老齢化していくのだろうと思うし、それなりにクオリティの高い本はできるのでしょう。なんか、黄昏だけど。
 つうわけで、ブログがどうあるか、実は、ブログの文章がどうかっていうのは、まったく違ったアングルを取らないといけない地点にまであるのだけど、見えてない人多いよねとは思うよ。