ぶくまと人気エントリとロングテールエントリと

 ⇒404 Blog Not Found:5万はてブへの道

いかにリピーターを満足させつつ、新規読者を遠ざけないかというのは、blogに限らずあらゆるメディアに共通した課題ではあるのですが、その意味では本blogに限らず、いわゆるアルファブロガーのみなさんはそれぞれのやり方でよくやっているように思われます。もっともその「やり方」なるものは、言語化するにはあまりに曖昧模糊としているのですが。体はわかっているのだけど言葉に出来ないというか。

 ぶくまの場合は、母集団という意味じゃないけど、衆愚という意味じゃないけど、100を越えるようなエントリの場合、ある典型的な偏りが出てくるので、その偏りのポップ性のなかに、something newがあるかだけが重要。たとえば、おやおや、このネタは今までなかったのにぶくまぺとぺとってなんだろ?みたいなとこだけ気にする。(人気がありそうだからといってその手のネタは食わない。でも、炒飯ネタとか書いたか。まあ、でもこれは云々。)
 で、ぶくまの人気と実際の人気のエントリとは別というか、PVが短期に来るエントリは基本的に社会の空気からちょっと浮きだしたキーワード。つまりバブル。この手のものは、本質的にはイナゴと同じなので、あまり対処しないほうがいいというか、むしろ冷やす。ベースとしては社会の今の問題について言うことがあったら少し言うというか、社会ヒステリーを助長させないような配慮で言及する、というか、それがけっこうブログの役目。逆だと思っている人も多いようだけど(それと冷やそうとすることで仕込み側から反感を受けることがあるけどね。)
 で、ロングテールエントリというか、つまり、いつ読まれても意味のあるエントリ。でもあまり人気はなさそうなエントリ。この手のものを適当に混ぜる。たとえば、「極東ブログ: 青色一号」ペプシブルーの空気で書いたがあえてペプシブルーのキーワードを落として表面的な注目性を減らした。代わりにいつ読んでも耐えるだけどのファクツをまとめておいた。このエントリはまったく別の時期に別の空気でかなり読まれることになったが、想定していたわけではない。また、ちょっと違うタイプかもしれないけど、「極東ブログ: [書評]その夜の終りに(三枝和子)」などは、わざと読みづらくというわけではないけど、深く読んで貰う配慮と、射程を遠く置いた。いつか誰か、じっくり読み解く人がいてくれるといいなとなんとなく思う。
 そうしたロングテールエントリの知的な組織化なのだけど、以前はどうまとめるかと考えたが、最近はいちおう過去ログの一覧を手作業で作る以外は、Googleに任せる。Googleがそのロングエントリを拾うかどうかに任せる。つまり、Googleから読んで貰えばいい。(余談だがGoogleの性能ががんがん上がっている。)
 極東ブログも時代の空気のキーワードや大サイトからのリンクで一時的にアクセスが上がることがあるが、またRSSでも読まれ出したようだ。そうした増加のなかでわずかに、非RSS的に定着する読者の少しずつの積み上げるのが現状最善のブログ・マネジメントかな。このあたりはRSSとの関連でとても微妙な時期にある。ぶくまもRSSもというかWeb2.0的な要素は、現状ではまだまだブログの基礎にはなっていない。なぜなのかとも思うが、多分に、書籍的読まれているのだろう。もっとも、書籍的に読まれるようなスタイルを取っているからというのもあるかもしれない。
 長期減少の局面になると(すでにそうかもしれないが)、それは基本的に、ブロガーとしての「私」の終わりというか別の局面になる。いずれにせよ、だからアップしようという別の努力をするとブログが変質するし、よほど意図的に取り組んだ変成でなければ、その手はあまり使わない方がいいのではと思う。あまり刺激してもなんだが、極東ブログオワタfinalventオワタとか言う人がいるけど、客観的な数値からはそうでもなさげなので、そういう人があまり客観性というのを認識でできないのではないかと思う、ってなことを書くと偉そうにとかまたまた言う? この点は私はべたに客観的なというか数値で見ているだけなんですよ。
 なんか話がだらっとしてきたが、ここもだし、極東ブログもあまり専門的な話はしない。自分に大した専門性がないせいもあるが、そういうブログでもない。あと、アフィリにバランスをかいて注目する人もいるみたいだけど、私がアフィリ最適化してないのは普通にわかると思うけど。ただ、アフィリの普通の努力はする。そのあたりの、普通の努力というのはなんどか書いてきたけど、通じない人には通じない。