朝日社説 高校生の学力―格差を放置するな

 得点別の生徒の分布を見ると、数学と英語では高い得点の層と平均点以下の層に大きな山がある。勉強ができる生徒と、できない生徒がくっきりと二極化しているのだ。

 格差というより生き方の選択の問題ではないか。それに、数学は普通社会人としては必要ない。英語は学校の勉強では身に付かない。こんなテストでがたがた言うことでもない。

 学校で学ぼうとしない生徒は、なにごとにも意欲を欠き、生きる力も乏しくなりがちだ。

 そういうことを言う大人はただの馬鹿だ。人は世間から学ぶ。ある意味で、学ばなければ生きがたいから学ぶのであって、それはあまり幸せというわけでもない。
 言うまでもなく、仕事は人生ではない。人生の内で仕事をしている時間は短くもないがそう長くもない。人はまず一義に生きているのであって、学ぶことが重要なのはその生きることをどう支えるかということだ。抽象論でなければ、大人が青年や少年にどう関わりを持つかだけが問われている。
 
追記
 「数学は普通社会人としては必要ない」に反感をもたれる方が多いようだ。余談だが、私は専門学校で初等数学を教えていた。一応キャリアにわずかに数学の先生というのがある。そのあたりの実感的な苦労感もあるにはある。それとコメントで加えたが、数学と応用数学的なセンスは違う。このあたりはちょっと説明するのが難しい。カントールは前者に近く、フリーリエは後者に近い。この感じをわかっていただけたらと思うが。
 もうちょっと補足すると、数学と合理性は関係ない。数学は原理性とあとはその演算に関わる。ブラウワーの直観主義など合理的といえば合理的だが合理的でないといえばそう。まあ、ものを合理的に考えられるかは数学的な能力に関係はしているが、数学でなくても身に付く。というか、合理性というのは、きわめて人間社会的な能力。