文章の敵は美学

 文章のうまい人間はえてしてすかすかなもんだなと思う。まあ、いろいろな文章があってもいいし、資本主義にあっては、文章の価値とは、一義に売文だ、いろいろな形態であれ。それはそういうもんだというしかない。
 で、ブログというのはそういう面もあり、そうでない面もある。ただそれだけのこと。
 そうでない面では、糞の価値にもならない文章が書けるということ。ああ、自由だ。
 文章には技術というものがあるのだろうと思うし、書いていれば、ああ、こういうのが技術かと得心するのがあるが、なぜかそういう文章技術は、いわゆる文章技術の本には書かれていない。その理由もなんとなく思うが略。
 で。文章の敵は美学だと思う。なにかを完成させたり、名文というかそういうのを書きたいという思いだろう。あるいはそういう視点での評価だ。なぜそれがだめかというと、結局それは既存のロマンとかポエムとか、セカンドハンドな類型に堕するからだ。
 文章というのは、それが事務的なものでなければ、わけのわかんないことを無駄な情念をかけてただむちゃくちゃに書いていけばいいだけのことで、そういうなかなからいままで人類が言語で表現できなかった微妙な感性の通路ができる。あるいはできる可能性がある。そしてその通路を若い人間が通る。
 今までだれもそれを美しいと感じなかったようななにかを作りだし、描き出し、それを美と言わせるような圧倒的な力で迫る……文章もそういうもんだと思う。
 それができなければ、それはそれでどういうもんでもない。およそ書くことなど、最初からゼロだったのだから。
 美しい文章は死にゆく老人のためのものだ。それはそれでいいのだろうが。