もう遙か昔のことだけど思春期のころっていうか

 テレパシーというのでもないけど、なんというか、心の奥のある核にうまく思いの圧力を込めると、偶然の配列が動き出すというか、なんとも奇妙な連動のようなものがあるように思えたことがあった。
 もちろん、そんなものはない。
 ただ、そう思えるような偶然と心の動きになにか奇妙な連携があった。
 あの力というかメソッドというか、それを使うと、たとえば、本当に好きな人に、心というかメッセージというか出会いというか何かを送信できるように思えた。(で、そうして恋が実るわけでもないけど。)
 問題は、それの使い方だ。
 邪念のようなものがあるときは動かない。
 でも、そうでないときに動くこともある。
 というか、その力はなんというか、不運とか邪悪な力に関係しているのではないかという奇妙な疑念もあって、その心の力の純化そのもの疑わしくも思った。
 あれから随分時が立ち、思春期のころのようにそれを使おうというかそうしたいとは思わなくなった。
 が、それでも、その力というかその仕組みとかに、この歳こいても常に一定の意識力を裂いている。
 もちろん、「好きな人」というような思春期的な枠組みでもないし、なんというか、自分の欲望というか自我の拡大へむけてその力を使ってはいけないというのは原則としてある。
 今では、うまく言えないのだが、配列というか、小さな宇宙のゆがみのようなものが見えるとき、少しその念というか送るというかま。祈る、というのにも近い。実際には、念を送るわけでもないし、祈るわけでもないのだけど。
 それと。
 その力を使っている世の中の人が、少なからずいる。あるいはすべての人がその力を使っているが、全体の配列というか大きなフレームワークのなかでブラウン運動化しているのかもしれない。
 それでも、時たま強くなにかが自分に送られるように思えることはある。
 ただ、多くは遮断する。
 感度を上げると混信するというか悲鳴ばかりが多くなりこっちが死にそうになってしまう。
 なんか、こんなことを書くと、オカルトというか、似非科学というか、霊能力みたいだけど、もっと自然ななにかですよ。
 願うとか祈るとかいう心の原型の何か。