新宿二丁目にあるキリシタン遺物

 場所はここ⇒新宿区新宿2-9-2 - Google マップ
 お寺はこれ⇒内藤新宿大宗寺

 太宗寺は、このあたりに太宗という名の僧侶が建てた草庵「太宗庵」がその前身で、慶長元年(1596年)頃にさかのぼると伝えられています。
太宗は、次第に近在の住民の信仰をあつめ、現在の新宿御苑一体を下屋敷として拝領していた内藤家の信望も得、寛永6年(1629)内藤家第五代正勝逝去の際には、葬儀を一切とりしきり、墓所もこの地に置くことになりました。これが縁で、寛文8年(1668)六代重頼から寺領7396坪の寄進をうけ起立したのが、現在の太宗寺です。
 内藤家は七代清枚以後は歴代当主や一族が太宗寺に葬られるようになり、現在も墓所が営まれています。
 また「内藤新宿のお閻魔さん」「しょうづかのばあさん」として親しまれた閻魔大王と奪衣婆の像は、江戸庶民の信仰をあつめ、薮入りには縁日が出て賑わいました。

 ⇒探索 内藤新宿・太宗寺(閻魔像と奪衣婆)
 キリシタン灯籠⇒キリシタン灯籠
 ⇒新宿さまよい歩き 7

 石質は白みかげ石で、江戸時代中期の製作と推定されます。
 切支丹灯籠は、江戸時代、幕府のキリスト教弾圧策に対して、隠れキリシタンがひそかに礼拝したとされるもので、織部型灯籠(安土桃山時代〜江戸時代初期の大名・茶人古田織部の好んだ灯籠)の全体の形状は十字架を、また竿部の彫刻はマリア像を象徴したものであると解釈されマリア観音とも呼ばれています。

 ⇒内藤清成キリシタン説 : osanpo 99 shinjuku-shinokubo

内藤新宿の語源ともなっている内藤清成だが,彼はキリシタンであるという説もある。新宿二丁目にある内藤新宿発祥の地である大宗寺がキリシタン寺であったのではないかというのだ。というのは,家康は,慶長17年にキリシタンを禁制したが,それより前にすでに日本橋に南蛮寺ができていたからだ。また,千駄ヶ谷や牛込にはキリシタンを信じる者が多くいたし,しかも内藤清成の紋は円の中に太い十字の字がかかれており,これは慶長13年に亡くなった清成が,まだ禁制にならなかったキリシタンの信者だったからでは?というのである。