衆愚とは思わないのだけど
というか、衆愚というモデルがどのように設定されるか、私はその方法が思いつかない。一般的には、「俺様は賢者よってこの多数は衆愚」、のようだが「俺様」が賢者であることを示す方法論が求められる。なので、学問的な云々が賢者の保証のように出てくるのだが、たいていのこの構図の問題は、学問が分からないのか馬鹿、ではなく、コミュニケーション的な合意の問題だ。(つまり、「俺様」の問題ではなく学問の合意性の問題。しかし、現実には「俺様」が突出する。)
というか、衆愚的なものがコミュニケーションの合意のように見えるという状況が変な印象を与えるのだろう。
とすれば、理路としては。
地味にコミュニケーションを重ねるしかないとなるのだが。
まあ、たいていは無駄ということになる。
その意味では、ブログとかはマジで熱死的なものなのだろう。
現実問題としては、というか、いちブロガーとして、私が印象としても思うのは、衆愚とかの問題は、その全体に、「これが問題なんだからコミュニケートしろ」的な無名の権力性がある。
それがどの程度不快かという問題だということか。
「私はそれを問題だと思わない。私はこれを問題だと思う」という多様性に個がどこまで対峙しえるのか。
というのは、「私はこっちが問題だと思う」がコミュニケーションへの呼びかけでなくてはならない。
そうしてみると、衆愚をエポケして「衆愚」とした場合でも、個が、個の多様な呼びかけをしているとき、「衆愚」は捨象されるのだろう。