釣れるもんだなぁ

 ⇒はてなブックマーク - 分裂勘違い君劇場 - プログラマの労働条件を過酷にしているのは、過酷な労働条件を受け入れるプログラマです
 とか、私も釣られているのだけどね。
 こうした問題は、「プログラマとしての自分の労働条件」と「プログラマの労働条件」がその延長にあるかのような議論だけど、ま、略。
 労働市場が機能すれば解決するでしょうけど。
 もうちょっと突っ込むとすると、現状のプログラマの労働条件がひどいなかにこういう基調のエントリがあるとうまく釣れちゃうっていうのは、なんだろとか思う。プロパガンダに近い印象は受ける。
 弾さんは輪をかけてすごいし⇒404 Blog Not Found:プログラマーって本当に労働者なのか?
 なんか、ちょっと閾値を越えているのかな。
 こうした問題を扱うときの大枠というが消えているのだろうな。
 一つには、自分の生き方の問題。
 一つには、社会の問題。
 社会の問題は、自分の生き方の延長のように見えるけど、そこにあるのは無数というか多数の他者なので自分でない、という限界性があり、それが公に疎外される。
 ゆえに、社会の問題は、それゆえの手順を取る。
 単純に言えば、政治の問題。
 だから、単純に言えば、プログラマの労働条件を過酷している社会を政治的に変えるために、個はその市民社会の手順に従って、政治参加をすべき、という理路になるのだろうと思う。(そういう意味でいうなら該当エントリは労働団体を作りましょうという結論もあるだろう。)
 ま、それでは釣れないし。
 それに、政治をそういう市民社会のツールとしてとらえるとき、実際の市民が特定のイデオロギーに吸着されがちな日本の風土というものがある、というか、それがもうある絶望の限界なので、なんとなく自分の状況を他者が変えてくれないか……そして……みんながというなるのかもしれない。
 通称死ぬ死ぬ詐欺なんかも、本当は公と政治の理路を取るべきなのに、推進も反対もそうしない。そしてその中で「命」がもてあそばれる。だが、この問題について言えば残酷なことに一人が救われれば一人が救いのチャンスを逸する構造があり、そこにはそれゆえに正義が求められる。というか、極めて公と正義の問題だった。
 ま、とか、言う私もたいして意味があるわけでもないし、意味があっても困る程度に小さく言う。