私はロボットであるという私の意識

 これは昔からある。
 離人症的な場合は感覚が離れるので、それとは違う。
 ぼーっとしていると、思考が勝手に動いているのがわかる。あるいは注意のある状態において思考が分離する。あ、コンピューター室が動いている、おまえら何やってんの、という感じだ。
 常態においては思考と意識は不可分であるかのように感じられ、私の意識があたかもここにあるように感じられる。
 ま、しかし、私の意識は私というロボットなのだろう。
 私の胃腸が消化器官であるように、私の脳は思考器官なのだろう。
 私という情感は内臓的に発生している。なので、そのあたりの実在の感覚は思考器官とは分離されているし、およそ欲望というのは、思考器官の外部からくる。あれだ、おおっ、その欲望を俺は受諾するのか的。
 ま、それはさておき。
 意識と思考において、思考はおそらく思考機関の本来的な機能ではなく、時間=記憶の装置だったのだろう。過去を保持し未来に防衛する防衛装置であり、それが大枠において、どっかから、死=未来への防衛となったのではないか。
 そこに根源的な恐怖の感情エネルギーが連結し、というか性的な情動と結びつくために、「ボクはセックスしないと死ねないんだ」衝迫を生み出すのだろうし、セックスのなかで「うーん、ボクは死んでもええ感じぃ♪」充足を生み出すのだろう。
 どうしてこんなふうになったのかは、意外と低次な生命体で起きているだろうし、たぶん、性分化に関連しているのだろう。
 おそらく、性は特殊な生命段階の生命意識がそれ自体の死の意識を本質的な他者に疎外したときに発生したのではないか。つまり、性は死と思考の根幹にあるのだろう。
 恐怖が解除されれば思考は止まるだろうし、記憶の崩壊によって「私」という意識は崩壊するのではないか。実際のところ、「私」という同定の意識は記憶以外にはない。
 仮に私が死後別の生を受けたとして記憶がなければそれは私ではない。私の記憶を入れ替えれば私ではない。
 とかいいながら、私は過去の記憶が他人の記憶のように感じられることがある。記憶のなかで私という意識の体制を強いている恐怖の欠落なのだろうか。
 余談だが、知覚というのは、おそらく意識とは別のマシンなのだろう。し、知覚のフレームワークの介在の度合いというのが、時間=思考と関係しているのだろう。