ざっくりとだけ

 年明けからちょっと別件で思うことがあり、ついでにタントラ関係のものを読み、ついでにチベッタン・システムと美術関連のものを読みながら、つらつらAUMのことを思い出した。単的に言えば、彼らは教義とシステムを完成させていたか?という点だ。吉本はこれを麻原に帰着させているようだが、そこがよくわからない。
 昔ニフティのことだがAUMerはけっこううじゃうじゃいて奇妙な神秘学を語っていた。ただの独断というのはどうでもいい雑音なのでその雑音からどう教義を聞き取るか、あるは権威を聞き取るかが難しいし、彼らはあまり正確な仏教の知識というか史的な知識をもってなさそうなのでおよそ対話にはならないと思った(教義と学問の差が理解されてない)。ま、これは今でもそう思う。が、ある程度チベッタン・システムなどを知っているなら麻原の教義の出所や水準はわかる。チャクラ関係の教説は神智学を経由しておりインドやチベットのネイティブな伝承ではなかった。このあたりは中沢新一に補強されているのだが彼自身僧にブレーンウォッシュされているのが気が付いてないんじゃないかと思えたのが喜劇というか悲劇というか、ま、これは放言で言うのだけど、中沢は知が暴発しないよう善人として死ぬようにセットされてしまった。もうちょっとGとかに中沢がインサイトを持っていたらああはならなかっただろうなと思うが。吉本は麻原のそうした教義と体験的なものを宗教家としてすごいものだと理解したがそれはちょっと勉強が足らなすぎ。ただ、この吉本の誤解はしかたがないというか正鵠の一面もあり、吉本は浄土教のああいう神秘系の意味に魅了されていた。そこが吉本のダメなところでもあるのだが、親鸞がああいうものを完全に無化しそのことの思想的な意義を了解しながら浄土教のシステムへの色気が消えていない。そこには麻原などがつけいるといった構造なのだが、この構造は吉本だけとは限らない。
 ま、どうでもいいといえばいいのだが。
 AUMのなかで教義が完成していたのかというのが難しい問題で、もしそれが完成していたなら誰が完成させたのかどのような意図が出てきたのか。これが吉本が夢想するように麻原本人なのかというのがよくわからない。サリン事件などを見るかぎり、麻原はある程度教義を理解していたかもしれないと思う。というのはサリン事件を起こすなら高弟を使う必要があったか? もちろん秘匿のために高弟を使うというのはあるし、そのあたりあの事件の別の側面が隠れているだろうとは思う。ただ、麻原自身はすでに高弟らのグルとしての精神的な支柱であろうとしながらそのエフェクトについてはすでに現実認識を失っていたのではないか。
 問題は教義だ。ニフティのころだが、AUMのある意味で中心的な(組織的に中心ではないが)意識にいた人物が埋蔵教典にこだわっていた。どうもAUMのなかで埋蔵教典を権威にして教義構築をしていたふうであったし、それはチベッタン・システムにある程度理解のある人ならミッシングピースをつなげてみたい知的な欲望にかられる。