ブログの風景

 困窮した議論がさらに困窮し。
 話題がハイパーリアルになりながら、しょーもない正義の連帯がネット参加の奇妙なインフレーションを誘う。
 というあたりで言うと皮肉っぽいがそういう意図ではないが。
 ⇒はてなブックマーク - 分裂勘違い君劇場 - 子供の「どうして勉強しなきゃいけないの?」→ 勉強することの具体的で直接的で切実なメリットを説明
 まあ、なんつうか。書いている本人が思うこととブクマの数の乖離はなんだろとちと思うがまどうでもいいといえばどうでもいい。
 ブログの過去エントリは読まれない、と、言われている。
 どうもそうでもない。
 細く静かに読まれているし、ある意味で文学みたいに細く小さくしかし強く。
 そのあたりの動向が先のインフレーションからはかなり見えなくなる。
 ブログの風景が変わる。
 変わる要因は、基本的には忘却というかショートタームメモリー的な話題の流れだし、その背景にある個の孤独だろう。ある意味、増田がそういう部分を奇妙に拡張している、というかべたにいうと乗れる話題を探している。乗ることだけに意味があるかのように。
 ブログの作法というか様式というのはだいたいわかる。それがかなりブロガーの外部的なイメージに固定されているし、ブロガーもそれに答える形にならざるをえない。
 というあたりで少しスタイルを変えたブロガーが別の名前で文章を書いたとしても、それ自体はインフレーション的な興味の枠でしか関心を持たれない。単純に言えば暴きというくらい。しかし、そういうもんでもないか。
 ま、そうした流れとは別に。
 身も蓋もない系の女性のブログが面白い。どうしても女性という目でさらされた時代はもう少しすれば終わるかどうかはわからないが、大手小町でもいいしもっとベタに社会にいる女性の言葉がブログに出てくると面白いのだが、が、というのは、ブロガーとしての様式は外部からの拘束的な視線にどこまで耐えられるだろうか。そのあたりの、しゃらっと自分をこなす身の振り方が女性には難しいのではないかと思うことがある。もちろん、女性の本質とかいう問題ではなく、女性というエクリチュールの問題だ。
 話はすこしずれるが。
 文学者が成功するかしないかとのかなりの要因は実はルックスである。その文学へののめり込みみたいなものを商用的に引き込むにはルックスが重要になる。もちろん、美男美女というだけではなく知的であったり尊厳であるかであったり。そのあたりから、顔を見れば人がわかると思いたくもなるし、あらかた世間知的にはそういう面もある。
 ただ、そうとばかりもいえない。
 男も女もおそらく30代まではそうでもないが、40代になると、男には女の匂いが、女には男の匂いが漂いはじめるし、それは顔にもだろうが、文章に出てきてしまう。男が女っぽく書くとか、男が女経験談を書くといった表層の問題ではない。というかそんなレベルのものはギャグ以上の意味はない。