れいの問題というか

 例えば「悪」がある。それは悪なのか云々とかいうとき、「悪」はモデル化されており、この場合、モデル化に合意があって議論するか、モデルの作り方に差があって議論するか、というのがある。前者だと学問的な感じになる。
 後者が多い。
 モデル作りに差がある場合、方法論が確立しているなら、それがメタモデルとしてモデル評価たりえる。ところがこれがイデオロギーっぽくなったりするともうダメ。ダメな議論以前の問題になり以下略。
 というとき、モデル議論じゃない、descriptiveな議論があるわけですよ。モデルをブラックボックス化してそのエフェクトをモデル化するというか。
 ただ、そのエフェクトのモデル化を、議論のモデル化と同じ土俵に上げられたまたまた議論にならないわけですね。
 というわけで、この場合、方法論的にエポケーするというのが理解できるといい。
 つまり、エフェクトが列挙できたらその内部構造(ストラクチャ)のモデル化ができるわけですよ。
 そのあたりが、ethicとも言えるのだけど倫理じゃない。実際のところヴェーバーの場合はそういう意味での倫理でもないし、そして彼が教義議論を展開しているのは、一旦エポケーされた内部構造のモデル議論なわけです。ただ、それが人間の了解から逸脱しているわけではないが難しい。
 ぐだぐだ言ってしまったけど、このあたりの問題は基本的に感覚というか、学問=discipline、なんで、その感覚というか、若いときにそういう世界にいた人でないと感覚としてわからない。単純にいうと、文献嫁、歴史という感覚を汁だけど、歴史知識じゃないんですよ。ああ、ある時代はそういうふうに支配的な暗黙の合意があったのか、ふーんの感覚です。
 世の中頭のいい人はいっぱいいるわけすよ。感性の優れた人、天才とか、努力家とか、ただ、そういう頭の良さは、きちんと、学問=discipline、によって陶冶されなければならないわけで、そこがわからないでフカしているとダメというのが略。
 まあ、個別の「悪」についても、そうして見た場合、その「教義」の構成性が議論されなければ行けないわけで、吉本が年老いてなければできたかもしれないけど、そこはそう簡単な問題じゃないんですよ。
 ただ、こうした問題は、社会と「公」の関係ではまったくない。しいてかなり迂回されて「公」の問題になる。
 あるいはもっと単純な類似モデルで考えるなら、史的モデルを作るべきなんですよ。ある教義なりでもそれは基本的に模倣からできているわけです。その模倣と社会リアクションの歴史があるわけですよ。
 ま、ってなことは通じない。
 結局、学問=disciplineを馬鹿にしないで一時期すべきかなと思うのですが、そんなことべたに言うと、頭の良いかたから、ばーかばーかとか言われるわけですな。ま、そんなもん。