ちょっとメモ、済州島

 ⇒メディア批評/岩波新書「日本社会の歴史」(上、中、下)

網野 志摩国は、すでに8世紀の天平時代に済州島との交流があった。志摩をはじめ豊後・肥後の海民が「耽羅鮑」を調として貢納しているように、列島と済州島の間には古くから往来があり、その伝統を背景に、明治になるとすぐに済州島の海女たちが房総半島に移住している。9世紀には、博多津に新羅の海賊船が来襲したという記録もある。海賊は一面では海を舞台にした商人の性格を持っていたと考えられるので、列島沿海の海賊が朝鮮半島の海賊と手を結ぶことも大いに考えられたので、当時の日本の朝廷としては困った存在であった。これらの事件をきっかけに、日本の王朝は再び反新羅の姿勢を明確にしていくが、古くからの海を通じての列島と朝鮮・大陸との交流は、これで途絶えたわけではなかった。長崎の五島列島小値賀島には唐や新羅の商人が必ず立ち寄ったといわれるように、唐・新羅の商人の来航はそれ以降もむしろ活発化していたのである。今でも五島列島には朝鮮語の「チング(親友)」という言葉が生きているが、こうした交流の鮮やかな足跡ではないだろうか。

 ⇒済州島 - Wikipedia

韓国では伝統的に厳しい済州島差別があり、現在も続いている。1948年4月3日に起った済州島四・三事件では、少なくても死亡者7万人にのぼり、それから逃れる為に、自ら日本に渡って来た在日コリアンも多い。しかし、在日コミュニティーの中にもやはり済州島差別が残っている。

 ⇒済州島四・三事件 - Wikipedia

済州島の古来よりの複雑な歴史背景によって、朝鮮本土からの迫害や差別を受けていた島民は、新天地を求めて日本本土へ移住あるいは出稼ぎに行き、併合初期に来た最初の20万人ほどの朝鮮出身者の大半は、済州島出身であった。敗戦による独立によって、そのほとんどが帰国したが、この事件で済州島民は再び日本などへ避難あるいは密入国し、そのまま在日コリアンとなった者も数多い。事件前に28万人いた島民は、1957年には3万人弱にまで激減した。

 ウィキもけっこう詳しくなってきたものだ。韓流ドラマの影響か。
 おやこんな項目もある⇒白丁 - Wikipedia