日経 春秋(12/27)

システム化の中でうごめく「無造作な悪意」の恐ろしさが、身に染みる。

 違うと思う。私はブログを始めてからメディアのヒステリーの恐ろしさが身に染みるようになった。
 昨晩ぼんやりとブログの過去のことを思った。いただくコメントは罵倒というかお前馬鹿だろが少なくない。まあ、そんなものかとは思うが、幸いその手のレスポンスは私の人生の常態であり、時をおいてから彼らの反応が正しかったのか検証してみる。ブログについてもそうだ。自分は全てを当てたとは思わないし、コメント者はごく限られた関心のなかで奇妙な自己表現をする人の割合が多いようにも思う。しかし、自分の定点はそれほど間違ってなかったのではないかと思う。ただ、あるティピカルな誤解を解くことはできないだろうし、ブログを続ける人間の宿命のようなものだろう。
 あまり支持されていないというのが客観的な一面でもあるのだろう。そこが難しいところで、ああしたブログをどこまで支持されるかというのはマーケティング的には解けない。あと、なんとなくだが、私への罵倒者とは反対に、私にある種の「大人」であることが求められているような印象はある。ただ、あまりそこは考えないようにしようという感じはある。
 ブログについては、まだ続ける意味があるのか。来年にはそうした岐路が問われるだろうか。そこに私の修羅場があるわけだし、孤独というのはそうした点ではいいものだと思う。