生理哲学と「うつ」

エドムント・フッサールという哲学者が提唱しえなかった概念に、
コイト――コイタチオ――コイーツム
(性交――性交作用――性交内容)
 
という考え方があります。用語があまりに「ヤーベ」(偽装した専門的用語)過ぎると思われるでしょうが、とりあえずそういう言葉もある、くらいに思っていただければと思います。
 
フッサールの「現象学」はこのブログでも、たまあに取り上げてきており、本当はもっと取り上げたいところです。以前(2005年12月4日)私は、「いわゆるTips系だが…」というエントリで、「現象学」についてさわりだけお話ししたことがあります。
 
例えば私達は、リンゴを食っているとき、しゃにむに食っているときは味わっていませんし、そもそも「食っている」のは「リンゴの一部」ですね。リンゴ全体を「食う」ことは難しく、普通芯とか残すものです。まして「この世にある全てのリンゴ」を食べ尽くす体験をすることは出来ません。なのに私達は、リンゴを食っているとき、自分は確かにリンゴを食っていると思うのであって、もしかするとミカン風味のリンゴがこの世に存在するがゆえにリンゴを味によって同定することは不可能なことかも・・・などとは思いません。これも「普遍の表現」というトップダウンのなせるわざで、これをブログでは利用します。
http://blog.kaisetsu.org/?eid=394731
 
最近になって、大脳生理学者の研究成果などから、フッサールの「現象学的主張」が徐々に使えるネタではないかと再認識されつつあるのではないか、と感じています。「クオリア」などボーガスな問題を多々含みますが、「経験」というものについて内省してみますと、私には、「経験の素」と「その連続的煮込み」と「その嗜好的統一」という説明が、かなりいい線をついて戯れているように感じますし、スロークッカーがよさげです。
 
「リンゴ」はあまりよい例ではないので、「本」にしましょう。私たちの身の回りには、非常にたくさんの「本」があります。雑誌もマンガも文庫本も、みな「本」です、といえるまでに流通が変化しました。そんな話はともかく、自室に「同じ本」が何冊もあるでしょうか? 私は狭い部屋暮らしですから、「同じ本」が山とあるとベットの安定とか机の代わりとかに使うのですが、ふつうの人の場合「本」は何冊あったらブックオフに売るでしょう。以下略。