読売社説  [中国外交]「資源確保の思惑が露骨に見える」

 別にどおってことない話を今日蒸し返しているのはなぜかよくわからん。
 日本にとって問題は資源確保ではなく、市場があるかということだ。市場があれば、資源確保は不要になる(ま、そこまで言うと極言すぎるが)。こういう問題についても経済学者からあまり話を聞かないように思うな。気のせいか、経済学はいつのまにか金融政策だけになってしまったような印象もある。まあ、それはそうなんだろうが。放言するとそれもまた国家への依存の強さのように思う。話がそれてきたが、よくわからないのは、高度資本主義の状況では国民が可処分所得の大半を握るようになる。とすると、国民が持つ材をどうコントロールするかが国家側の戦略になるわけで、なるほどだから貨幣コントロールということかということになる。単的にいえば、貨幣コントロールの意図というか結果は事実上の一種の増税である。なにか根幹が間違っているように思うが、モデルやモデル上での学問として間違っているわけでもない。
 国民が可処分所得をどのように蓄積するかというのが貨幣に依存しなければならないというか、それ以外は? 投資? ふと思ったのは、伝統社会においては、投資はまさに社会に還元され、それがその人の、可処分所得を蓄積する意図とバランスしていたのではないかと思う。人は死期が近くなればそうカネなんか持っていたってしかたない。自分をつつんでいた社会にどう寄与させるかという「政治」が必要になると思うのだが、それはどこから見えてくるのだろう。