歳を取ると人を人の子と見るようになるっぽい

 連想で⇒green - 年齢
 私は来年50歳になる。
 心はあまり歳を取らない、じゃなくて取れないというのがある話は以前した。
 では心は若いかというとこれは微妙。心が若さと同定しているのは私の若い時代と私のある劇場的ななにかであって、つまり、若さとそのもの(身体性)とか昔の時代の若さであって、それは今の時代の若さからすると古いなにか。
 ただ、さすがに、自分の言動が年寄りめいてきたなというのある。
 言葉では、というか、言葉の裏で動かす感性は、たぶん私には私の若さがあるのだろうが、今の若さではないので、そこはどうごまかしてもムリがある。finalvent、爺、はまさにそうだろう。ただ、自覚的な部分もあるから、そこは多少見せかけを替えることはできるかもしれないが、そうするメリットがない←という発想が爺めいている。
 で、と。
 22歳くらいのころなんかの間違いをしてたら子供がいたかもしれないとすると、その子はもう27歳にもなる。というか、その時の自分の歳を超えている。この幻想はなんどもつきまとうのだが(幸い幻想で済む)、そういう思いのなかから、人が人の子に見える(聖書でいう「人の子」ではない)。
 ああ、人は人の子供なんだな、と。
 まだ若い親たちが人生と世界に立ちすくみながらそだてた赤ちゃんなんだな、ひとりひとりが、と思う。
 年功序列がわるくないのは、そういう年寄りを人の社会の上に据えないとだめなんだな、と。
 若さの愚かしさは許せるというか、愚かしさに右往左往できるのも若さであって、歳を取ると愚かさはただの愚かさでしかない。