微妙な問題

 ⇒green - 人の命の重さを知らない国

 拉致問題が発覚した時、僕は衝撃のあまり一週間ほど寝込んでしまったが、直接、自分の身に起こったことではない、いわばニュースとしての情報にどうしてあれほどまで衝撃を受けたのだろうと考える。
 たぶんあの事件が原理的には誰の身にも起こりえることで、事件が僕たちの国の歴史、社会、政治と密接に関わっていたのに、それを知らなかった、それを知らずに、知ろうともせずに、食べて飲んで、笑って遊んでをしていた自分、それをしていたこの国の人たちのことをどう受け入れていいのか、処理が混乱したのだと思う。

 反論とかではないよ。
 拉致事件が発覚した時、という時はないと私は思っていた。いや、言い方が正確ではないが、どう正確に言えばいいのかよくわからない。私にしてみれば、拉致事件があることは昔から知っていた。ただ確証があるわけでもないし私には関係ないのでなにもできなかった。しかし、沈黙していたのには理由がある。それは後で書く。
 拉致がほぼ確定的だなというのは、このあたりでわかった。
 このあたり⇒「 これでもシラを切るのか北朝鮮―日本人拉致 続々届く「生存の証」: 本: 石高 健次」
 この本は1997年である。そして別の出版社から2003年に復刻された。
 

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これでもシラを切るのか北朝鮮: 石高 健次
 その年月の差は5年ほど。
 その5年に何があったか。
 拉致事件とは、金正日がそれを認めたという事件だった。
 彼がそう認めるまで、私は覚えているのだが、この問題はとてもじゃないけどよほどの覚悟ないと言える状況ではなかった。「北朝鮮」とすら言えなかった。
 ネットとはそういう場所なのだということを私は知っている。本当のことを言う者はひどい目に遭うようにできているし、その前兆も見えてくる。
 ただ誰も本当のことを言えばそうなるというものではない。ようは、ネットというのはなんであれプロパガンダだということだ。私のバッシャーが出てくるのは私の言説が多少なりプロパガンダ効果を持つと認めてくれるからに他ならない。
 では私はどうすべきか。私など無のような存在だと私は思うが、実際になにかしら本当のことの片鱗にふれればそれなりにわずかだが動くものがある。そこをどう考えたらいいのか。今もわからない。今でも私はあまり面倒なことは語らない。読む人が読めば何を考えているかわかるだろうし、そのあたりの手応えはあるので、無駄な争いをしたくないというのが本音だ。
 拉致問題に戻ると、実は、金正日がそれを認めたという事件の、それ、が何を意味しているか、そこをマスコミが急速に別の文脈にすり替えた。これもひどい話だが、この件についても私はほのめかし以上には語らない。
 こうした重苦しい空気は、日本の言論なかで、いつも右翼と左翼が機能している。
 八つ当たりではないが、たとえば。
 ⇒Let's Blow! 毒吐き@てっく: 本物の南京事件のお話
 私はこの問題について語らない。語るためには、ある典型的な毒吐きさんのような地歩が必要になるからだ。そして、その地歩にとどまれというのは、対立者であるはずの左翼にとって安全圏でもある。たぶん、私がこの問題を語れば、左翼の安全圏ではなくなり、私にバッシングが起きるだろう。おまえは自分を買いかぶりだろとか失笑の声が聞こえそうだが、その声がすでにその機能の一端なのだろう。まあ、お笑いついでにいえば、いわゆるネットの右派がいくら語ってもそれはただのゲームにしかならない。そしてこの問題のうっすらとした気持ち悪さを感じている人は密かに私のこうした臆病なありかたに連帯感を持っていてくれていると私は信じている。
 ただちょっと踏み込んで言えば、言説としての南京事件はただ右派左派の典型的なバトルリングでしかなく、それが機能するところがどちらかの派の勝利であれ、実は日本の市民にも中国の市民にもなんの利益もない。そのことは、よく中国をワッチしていたら、数年前から中国側からはシグナルは出ていた。
 私がかろうじてすることはそうしたシグナルを読むことで、無駄な文化戦争に自分を浪費したくないし、左派右派がいずれ消える荒野のなかできちんと市民言説がなりたつ可能性を模索することだろう。
 拉致事件の関連で言えば、似た構図はオウム事件にもあった。オウムの所業については東京サリン事件(地下鉄サリン事件)で露呈した、かのようだった。そこでまた空気が一気に逆に流れた。
 私はオウムの危険性をその事件の前に知っていた。しかし、あまりそのことを語らなかった。今では、この事件に隠されている別のいくつかの事件について思うことがあるが、あまり語らない。というか、曖昧な形ではすでに書いたので読み取れる人がいたら読むだろうし、それ以上語る任にはないだろう。
 ネットとオウムの問題といえば、思うこともある。ただ、そこも語らない。核となる問題はすでに終わって、別の問題が発生しているのだが、市民社会には関係ない。それ以上に私が発言できる立場にない、それだけだが、ただ、私を敵視する存在は私の言説の意味を了解してもいるのだろう。
 まあ、最終弁当、終わったな、ということでひとつ平和に。