一種の中2病みたいなものだが……

 昔、こう悩んでいたことがあった。キリスト教が正しくそれを布教することに意味があるなら、キリスト以前に生まれた人や布教以前に生まれた人はどうか?
 ばかばかしい問題なのだが、後年、これはけっこう西洋ではマジな問いかけになっていることを知り、いろいろ議論を追って面白かった。ごく簡単にいえば、そんなくだらねー問題をマジで議論していた人たちがいるんだなみたいな。
 さらにその後というか、神学みたいのを少し学んでいるころ、カトリックの神学だったが、キリストと布教の関係を、布教するされるという関係性を、逆転して捕らえる考え方があり、興味引かれたことがある。結論を先にいえば、キリストという他者は、布教される側のなかに現れるというものだった。
 さらにその後というかその前後というかパウル・ティリヒの神学を学びつつ、彼が実は、自身の組織神学を晩年超越していく姿を少し知り、そして彼の世界宗教という考えに興味引かれた。これもかなり雑駁に言えば、世界宗教においてキリストが得られるというようなものになるだろう。
 だろうというのは、ティリヒはミルチャ・エリアーデとの共同研究の途上で死んだし、なんというかその最後の思想というか最後の神学をうまく表現しなかった。
 今にして思うとティリヒは信徒というかキリスト教徒の躓きにもなりかねないものに対する責任感のようなものがあったのかもしれないし、もっと率直にいえば、親鸞にも秘すべき彼自身の人生への悔恨ともいうべきなにか契機があったのかもしれない。
 ただ、私はティリヒの最後の姿を想定することに、おそらくキリスト教神学というものも解体されたのだろうというふうに思った。まあ、この問題はまさに自分の人生の悔恨みたいな契機とも関係しているのでうまく言えない。私は、ただ、今思うと、ただ何十年もティリヒを読み続けているだけだとも言える。