死にたい若い頃

 この話はなんども書いたような気がする。
 生きているか死んでしまったかというのはけっこう偶然だったりするし、なかなか、その後の人生というのはむずかしい。
 どう考えても、生きることに適性のない人間というのがいるとしか思えない。というか、これはけっこう薄く広がっており、多層的な生活能力で覆われているのだろう。うまくいえないが、そう少数の分布ではないのだろう。
 とか思うのは、なぜ人は、救済だの宗教だのを求めるのだろう。こんなことを私が言うと苦笑される人もいるだろうがまあ、苦笑されるかたは私がどれほど反宗教的な人かわかってないのだろうと思うのでしかたがない。安易に理解してくれとも思わないし、率直に言って理解しないでよいとも思わないのはこんなことをうじゃっと書いていることでもわかる。ま、私は世界の片隅で孤独を叫ぶではある。
 で。こういう宗教だの盲信だのに少なからぬ人が精神支配されている、というのは、それらが生存戦略に有益なのだろと思うし、自殺者はなんであれある種の救済のようなものを求めているわけで、というか、こっそり静かに消えるように自殺する人というのは、見た目には自殺かどうかよくわからないものだ。なので、自殺自体が目についてしまう訴求力のなかにその人の迷いがある。
 死を賭して訴えたいことや死が自己の引換券になっているほど、それほど重たい自己を抱えているということで、ま、「私なんか生きてる意味がない死にたい」というのがずんと存在を覆えば、自然に静かに自滅する。
 うまく言えないが。
 あと、自殺みたいな契機を「乗り越え」てしまった人は、始末に負えないという感じがする。自分などもそう見られているかもしれないが。
 残念ながら、生きることそれ自体にもうまい価値性というか意味性をくくりだすことはできない。
 というか、価値性や意味性というのは、その人を包む共同性のなかにしかない。
 生きると決めたら、うじゃっといわずに仲良くやってけやということになるし、自滅をできるだけ緩慢に天命に遅延化していくのが世にある努め。