メスが着飾る

 というふうに言っていいのかよくわからないが。
 大抵の種では、オスが着飾る……じゃないがいろいろ「美」を競ってメスの気を引く。メスはまあ、そうした「美」を判定する。性戦略。
 で。
 れいのシンメトリーをメスが好むというのは、まあネタかはさておき、それ自体も「美」であれば、オスが着飾るじゃないが、オスの美ともいえる。
 というか、メスが着飾るというのは、人間種というより、ある歴史空間の特異性か?
 で、また貨幣だ。
 この構図のなかにたぶん、貨幣というか、価値への信頼なりが存在する。というか、遅延された労働の交換性への原初的な確信が込められている。
 といういか、人間社会の貨幣と同一視できないかもしれないが、各種において貨幣的な存在があり、それが性戦略に関連している。
 この場合、貨幣の遅延性がけっこう重要で、実際のところ、人間種の場合、極度のネオテニーを結果的に選択したため、女系であるか(女が子を育てるためのシステム)か、男の貨幣の再回収性というかが必要。
 とみると、売春と結婚の際は、この再回収性だけのこと。
 というか、その再回収性が労働に組み込まれたところで、ある社会が成立する。
 というか、女系においていわゆる生産が維持されるなら、再回収性=男の労働、というのは不要になる。
 というか、それって、豊かな東アジアや東南アジアだよな。だから、男は働かない。労働が意味をなしてない。
 むしろ、再回収性=男の労働、というのは、東アジアや東南アジアではない地域で発生したというか、ある権力の構図(父系)から出来たもので、そしたたぶん、貨幣の価値性が維持される交易システムを前提にしているのではないか。
 以前、イスラムの拡大を見て思ったのだが、一般に言われているのは異なり、イスラムというのは、かつてのソグドやユダヤなどが行なったような交易のシステムに近い。
 いわゆるK・ポランニふうの、互酬、再配分、市場、というのは、違うのではないか。というか、これはむしろ、性社会システムの下位の概念ではないのか?
 別の言い方をするとポランニが近代社会を市場の奇形的な拡大としてみている(ととりあえず理解する)とした場合、そこには権力ができるだけ透明化というか公義化された交易のシステムが貨幣に対して求められる(ユダヤ、ソグド、イスラム)のだが、それ自体が貨幣の先行性に寄っている。
 繰り返すが、女系で子供を育てるシステム豊かな社会では貨幣なく、男は働かない、売春が成立しない……のではないか。
 ……というあたりで、どうもちとどっかで間違っているようだが、少なくとも、いわゆる人類経済学というのは、それ自体がいかがわしいという以前に、なにか概念構成が違っているっぽい。
 もっとも、動物行動学みたいなものから社会ができるわけでもない。
 このあたりの方法論がどうもうまく仮説できない。
 ま。
 それはそれとして、日本が面白いのは、なんだかんだといってもかなり部分、実際には女系であり、女のシステムが子供を育てているのであり、そしてかつ子供を支配している。それが、再回収性=男の労働の上になりたっているとしてもそうなので、これは、東アジアのもっとも古型そのままかもしれないが……。
 
追記
 いうまでもなく、私はマルクスように、貨幣を商品交換や市場から発生したものとは、まるで、考えない。むしろ、貨幣的なものの信用が具現化しただけであり、その具現性は、ある種の公義を前提していると考える。
 ある種の公義が確信できるとき、そこに必然的に貨幣=遅延された労働(過剰労働)が出現する、と、考えている。