産経社説 いじめ自殺 死に急いだら負けになる

 自殺は、いじめに屈して負けを認めるようなものだ。真相も分からなくなる。曽野さんが指摘するように、いつかはいじめた相手を見返すくらいの気持ちをもって、心身共に強く生き抜いてほしい。

 急がなくても負けは負けという実例が、この私。
 っていうか、いじめた相手のことは忘れなさいと思う、っていうかなかなか忘れられない自分がそう思う。
 歳をとれば自然にわかることも多いが、いじめた相手は「私」のことを忘れている。「私」が一生そのいじめを忘れまいとしているのは、いじめを是認しているようなものだ。落石事故にあったようなものだ。石を恨むのは愚かであり、石になんらか意識なり尊厳なりを思う必要もない。(わずかに例外はあるが。)
 人をいじめた人間は、なんというか、人を軽視できると思っている。「思っている」「できる」というのと少し違うが。が、そうした思いのなかに実は自分自身の軽視が含まれている。そして、人生の総体は、たぶん、それを許さない。
 それと、心身共に強く生き抜こうとかして、結局は、自分が自分をいじめることになりかねない。
 私は、いわゆる宗教信者が信じるような神は信じない。およそ宗教というものを信じない。そして、自己がこの世に存在している究極的な意味も信じない。
 ただ、自分がこのように存在しているのは、どうやら自分の責任ではないのになぜ自分に担わされているのかという、ある究極の懇願のようなものは多少感じる。それはとても遠い、あるいはとても昔、あるいは未来? 私を形成した何かがあるなら、それは私を存在させることで問いかけているのだろうと思う、というか、そういう問いに耳を澄ます。もっとも孤独のとき、その声を少し聞く。了解しつつ存在する。