仕事とカネとローンと女(男)

 昨日人とちと仕事とカネの話をして、私の話の要点は、生涯所得予想ってなんだ、概念的に構成されるだろうが、そんなの実体的にありうるのかというあたりで、けっこうどつぼった。
 日本人の場合という限定はあるかもだが、三十代半ばあたりで、賃労働者としての自身の社会的存在をどう見つめるか、カネ=欲望、カネ=時間の被支配、ま、そんなあたりで考えていたのだが、現実問題としては、三十代半ばあたりでリアル人生というのが怒濤のようになる。ならない人はそれが遅滞しているか、あとでもっとひどいよだろう。ま、それが人生っていうもので普通免れない。少なくとも親は死ぬし、既婚か未婚かという選択肢しかない。しいて最後の選択肢というと発狂とか自殺とかご宗教とかだ。
 で、仕事の選択とか、賃労働者としての時間の被支配性といっても、三十代半ばあたりでリアル人生がどっかーんと来ていると事実上選択の余地なんかない。女房子供がぴいぴいしていて仕事は俺に向いているかなんていう男、だめすぎ、になってしまう。まあ、だから、現実的には一般論が成り立たないのだが。
 が、というのは、日本社会総体としてはどうか?
 で、予想生涯所得なんてものが成り立つのか? というか成り立つ人がマジョリティで構成されているか。
 古いモデルだと女性は主婦ということで男性の所得に従属なんだが、すでにそのあたりで奇妙なずれがあり、実際のところ大半の女性の収入は、ビンボ穴埋めか彼女の可処分所得。実際にはこうしたカネの理由はもっと社会連帯的な(つまりは性的な)要求だろう。
 というあたりで、対象の半数である女性が確定しない。っていうか、予想生涯所得が成り立つ女性って統計的に無視していいのではないか。現実認識として。まあ、そういう社会がよくないとは思うし、それが是正される方向に進んでいると言えないこともないが、進んでないでしょ。
 予想生涯所得という概念にどのくらい実人生の残り時間という意識が結果的に反映されているかというとちょっとモデルが曖昧すぎてダメではないか。自分に残された時間というのはもっとベタに意識できる方向で人はシフトするだろう。ちょっとはずしかもだが、そのあたりが最後の惚け惚けが団塊世代だろう。彼らはそれを仕事の時間と関わりなく、やりすごせた最後の世代だろう。
 それに続く私の世代からは、私はもうすぐ死ぬ、私が私の制御できる時間はそうはないし、カネ(所得)とバランスしないといけない……という意識を持つだろう。
 で、冒頭の話になる。
 予想生涯所得といっても実際には、仕事の選択という局面では、可処分所得の部分を物への欲望とするか時間(人生の残り時間)の欲望とするか、いずれにせよ、可処分所得とのバランスとして現れるのだが、そこがどう人に現れるか。
 具体的にいうと、年収あと百万円減っても寝坊がしたいなと選択できるか。
 で、現実問題としては三十代半ばのリアル人生の怒濤が押し流していく。
 ま、それはそうとして、予想生涯所得の可処分所得というのは、その怒濤のなかでどう置かれているか、というのが、現実的には問題というものか、というのが、冒頭の話。
 これはけっこうぶっちゃけで言えるのだが、ローンのある人生に、予想生涯所得の可処分所得はないわけな。あるいはあっても、次に、子供のある人生に、予想生涯所得の可処分所得はないわけな。いやもちろん、半分冗談だが、そういう問題の枠組みだ。
 現実問題として三十半ばの男の意識にしてみると、ローンと子供というのは、女の問題であり、非モテとかぶいぶいの山の向こうにあるものだ。
 書いててたるくなったのでぶっちゃけると、人生の意味とは、ローンと子供であるということだろう。それをどう受け入れるかというだけのことかも。
 あるいはそれそどう受けれ入れないかというだけのことかも。